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  • ポンペイの思い出/大橋康隆@クラス1955

     大曲編集長の「ポンペイ」の映像を堪能させてもらいましたが、私には「ポンペイ」という文字を眺めると、大昔に冷や汗をかいた苦い思い出があります。


     1961年8月に、フルブライト留学でハーバード大学に行く前1ケ月エール大学に派遣され、米国の生活や社会を知るため35ケ国、45名の留学生と研修を受けた。当初ハワイ大学で研修を受ける予定であったが、10周年記念映画を撮影するため急遽男子2名、女子1名がエール大学に派遣されることになった。会社の上司に報告すると、エール大学は何処にあるのかと質問され、あわてて地図を調べて、ニューヨークとボストンの間のニューヘブンにあることを発見した。
     1961年からは氷川丸でなく航空機であったが、天候が悪くウエーク島に不時着した。島の湾には太平洋戦争で撃沈された軍艦が、船首を半分水面から突き出していた。遅れてハワイに到着し、食事後数十人のフルブライト留学生と別れて、米国本土に向かった。サンフランシスコ、シカゴを経てニューヨークに到着したが夕方になった。当時のPAM航空は世界一の航空会社で、遅延の責任をとって立派なホテルに泊めてくれた。夕食は自由に注文するように言われたので、美味しそうな料理を頼んだら多すぎて半分食べたら満腹になった。翌朝列車でニューヘブンに到着したが、一日遅れで到着したので、トルコから派遣された女子留学生3人と英語のテストを受けた。彼女達はさっさと答案を書き終え、にやにやしながら私を眺めているので前途多難を予感した。
     研修プログラムは実によく準備されていて、海外留学生達とはすぐに友達になれた。寮はキャンパスの周囲にある城壁の中の2人部屋で、メキシコから来てCivil Engineering専攻のS君であった。いい男で1ケ月楽しく過ごせたが、女性にもてるので、研修最終日の人気投票でMr. Wolf に選ばれた。
     研修が始まって間もなく速読のテストがあった。スクリーンに「Pompeii」という題名が現れると、火山噴火の様子を詳細に記述した文章が次々と現れた。スクリーンの1/3 も読まないうちに画面が変わる。終了後作文を書かされたが、題名の「Pompeii」以外は、何年に噴火して、何人犠牲になったか等の詳細は全く記憶がなく、初めてカルチャーショックを受けた。その後授業で長い数字の列をスクリーンで眺め暗記する訓練を受け、研修の最終日に再び同じ「Pompeii」のテストを受けたが、結果は同じであった。当時のケネディー大統領は速読が得意であったと聞かされた。最近では速読術の本も出ているが、当時速読するには2,3行づつまとめてパターンで認識するように教わった。この時、電気工学を専攻したことの有難さを痛感した。文系の学生は毎晩300頁位の本を一晩で読んで宿題のレポートを提出するので大変であったと思う。私も、ハーバード大学に行ってからは、前期にProbability theory, Set theory , Dynamics1 ,Mathematical linguistics、後期に Information theory, Switching theory, Dynamics2, Discrete Mathematicsの8コースを勉強した。前期のMathematical Linguisticsはロシア語を英語に自動翻訳するコースであったが、半分位は言語学の学生であり、宿題では300頁位の本を読んでレポートが必要であった。彼等にエントロピーを教えて、代わりに本の概要やポイントを教えてもらってピンチを凌いだ。集合論(Set theory)は東大で嶋津先生にリレー回路を習っていたので容易であったが、Discrete mathematicsの群論(Group theory)には参った。辞書を引いてもHomomorphism などの言葉は出てこない。
     研修の最初の2週間は出来の悪い留学生と思われていたらしいが、「Education problem of developing country」という題名で作文を書いた時に見直された。6・3・3制で日本人の教育レベルは下がったという批判的なことを書いたが、評価は赤ペンでVery good と書かれていた。あんなに英語が下手な学生がおかしいと先生に抗議した留学生もいたが、先生は「昨年Very goodをもらったのは韓国の学生だった。あの辺から来る留学生は、会話は下手だが作文は正確だ。作文は内容が重要。」と言われた。当時私は28歳でNECで6年間勤務して社会生活でも鍛えられて一人前と思っていたが、小柄なので腕白小僧と思われていたようだ。この日から友人が増えて研修最終日の人気投票では「Most charming」に選ばれ国際親善に貢献した。「Most charming」に男性が選ばれたのは初めてで、日本人が選ばれたのも初めてであった。Miss. Yale にはトルコから来た女子留学生が選ばれた。会社は休職であったが、毎月レポートを工場長に提出するよう言われていた。最初の1ヶ月は電気工学とは無関係であったが、人気投票の結果を国別に列挙して報告した。「君にしては快挙であった」と返事が来たので恐縮した。

     「Most charming」に選ばれたお蔭で、留学生全員からエール大学のノートブックに名前と一行文を母国語と英語で書いてもらった。(写真1)ギリシャからの留学生は、「遠くの日出ずる国からきた友達に捧ぐ」と書いてあった。大橋とはギリシャ語でOXAΣIと書く。中近東やタイからの留学生の母国語は楽譜の様であった。またアフリカやインドネシアの留学生は母国語が多数で、共通語は英語やフランス語であった。 写真1 Yale大学ノートブック(ポンペイ)40%.jpg
    (写真1)
    Yale大学ノートブック

     日本語で高等教育を受けたのが不思議なようであった。有難いことであるが、その為に英語は下手になった。Miss. Yale に選ばれたY嬢にも書いてもらったが、その時の写真を友人が撮ってくれた。自慢の写真だがプライバシーに関わるので掲載できないのが残念である。

     研修中は週1回著名人が昼食会に招待されたが、8月16日にルーズベルト夫人が講演された。質問は自由だったので、私は米中関係について質問した。「多くの問題があるが、時間をかけて解決してゆくでしょう」と丁寧に答えられた。
     その時友人が撮影した写真の中央が夫人、右側後ろ向き格子模様の半袖姿が私である。(写真2)
    写真2 ルーズベルト夫人(ポンペイ)35%.jpg

    (写真2)
    ルーズベルト夫人

     翌年、新聞で夫人の訃報を知り感無量であった。

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