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  • ツナミ/斎藤嘉博@クラス1955

      東北関東大震災の惨状はまことに痛ましいが、これほどツナミの威力を映像によって克明に見ることが出来たのは初めてと言っていいだろう。まことにすさまじい力だった。

      私が小学校のとき、たしか修身の教科書だったと思うが明治三陸地震のツナミについての一章があった。高台に住む庄屋さんは海水が突然、異常に退くのをみて「これは大変、大きなツナミがくる」と直感した。しかし警報装置も何もない当時、漁村の人々に危険を知らせるすべもない。とっさに庄屋さんは庭先に積んであった稲藁の束に火をつけた。庄屋さんの家に火の手が上がるのを見た村の人々は、「これは大変いつも世話になっている庄屋さんを救え」と急いで集まってきた。ツナミが村を襲ったのはその直後だった。おかげで多くの人がツナミの災害から救われたという。日頃の徳とお互いの信頼感が大切という教訓を示したものだが、この話は妙に私の印象に残っている。
      昨年二月、ハワイ島にいた時に朝6時頃、ホテルの館内アナウンスが、ツナミ警報が出たとしらせた。M9.1のチリ地震のときだった。ヒロ空港は閉鎖され、「浜には出ないように、ホテルのロビー階は安全なのでそこから下には下りないように」との警告だった。幸いに大したこともなく11時ごろには警報は解除されて一件落着。

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    $00A0   (写真1)
    ツナミで陸に打ち上げ
    られたポリスボート
    $00A0  (写真2)
      ツナミ避難
       経路標識
    $00A0   (写真3)
     アンダマン海の
        日没

      
      そして今年の二月、私はタイのプーケットで過ごしていた。
    ここは2004年のスマトラ島沖地震(マグニチュード9.1)で大きなツナミの被害を受けたところ。7年の歳月はその爪痕をほとんど残していないが、被害の中心地バーニャンの街には小規模ながらツナミ博物館が置かれていて当時の惨状を示す写真や映像を展示 し、町の人々にツナミの恐ろしさを教えて、いつ起こるかわからない災害への警告をしていた。海岸から数百メートルのところにツナミで打ち上げられた長さ40mほどのポリスボートがそのままの形で保存されている〔写真1〕。この地震の被害はインド洋周辺からアフリカにまでおよび226,000を超える死者があったと伝えられている(ウィキペディア)。そしてその主な原因は観測体制と教育の不備と言われ、プーケットの海岸近くには、いたるところにタイ語とともに大きな英語で書いた「ツナミ避難経路、→200m」などの標識(写真2)がある。これらは大きな被災からの教訓の賜だろう。
      
      帰ってくると今度は足元の日本で東北地震のツナミ。観測体制、教育体制ともに万全なはずの我が国においての大きな被害をどのように将来の教訓としていくことができるのだろうか。

    2 Comments »
    1. 東日本大震災で亡くなられた方々や被災された方々に心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
      テレビで報道される映像は痛ましい限りです。津波と火災、自然災害と戦争の違いはありますが、1945年6月29日の岡山空襲で焼け野が原になった時を思い出します。
      斉藤さんのブログを読んで、私も「稲むらの火」を小学生の時に教科書で習って非常に感銘を受けたことをはっきりと覚えています。
      早速、インターネットで調べてみたら、小学生の頃は知らなかった背景が良く判りました。昭和12年(1937年)から教科書にのっていた「稲むらの火」がどうして戦後に消えてしまったのか残念でなりません。しかも昭和9年に公募で採用されたこと、作者は小泉八雲の”A Living God”の原文に感銘を受けて応募したことを知り驚きました。
      また、貞観三陸沖地震(869年)の実録があり、近年に科学的調査の報告もあることを知りました。科学で明日のことを正確に予測出来る範囲は限られていますが、過去の出来事や教えを大切にして、未来に役立てる知恵が必要だと思います。
      「稲むらの火」は実録を基にしていますが、主人公の浜口儀兵衛は、津波の後で大堤防の構築に尽力しています。長い年月がかかるでしょうが、必ず新しく生まれ変わって復興すると信じています。

      コメント by 大橋康隆 — 2011年4月2日 @ 14:43

    2. 詳細な補足をいただきありがとうございました。なるほど「稲むらの火」というタイトルだったことを思い出しました。
      今回の惨状の映像にわたしも3月10日の東京空襲のあとなど戦禍の様子を思い浮かべていました。それに広島、長崎の放射能禍も重なって。しかしそのなかからどうして日本が今の様子まで立ち直ったのか。考えてみるとさまざまな同質な点、異質な点が思い浮かんできます。もう敗戦当時のことを知る方も少なくなってきましたが、東北の方々が一日も早く元気な社会に戻ってほしいと願うとともに、高齢の私にいま何ができるのだろうか?とこのところ悩んでいます。

      コメント by サイトウ — 2011年4月3日 @ 09:15

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