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  • K.F.Braunの業績/山崎映一@クラス1955

     前回6月のブログ「ブラウン管の終焉」で発明者K. F. Braunに一寸触れ,詳細は次回にと約束したが今日はそれについて報告したい。


     話は6年前に遡る。私が所属しているモーツァルト愛好会のメンバーの一人にゲーテ信奉者がおられ,その足跡を追って旅をしたいのだが既成のツアーには満足すべきものがなく所望の行程で一緒に旅をしてくれる人はいないかと探して居られた。私もドイツは何度も訪れているものの東独には一歩も踏み入れたことがなかったので是非行きたいと同行を申し出私の妹も引き入れ3人で出掛けることとした。ルートはゲーテ街道と呼ばれているものでストラスブールに始まりフランクフルト,ワイマール,ライプチッヒに抜けるいわばドイツ横断道路であるがその大部分は旧東独領にありそのため我々にはなじみが薄かった。ゲーテはこの道を東奔西走頻繁に往復していたと伝えられる。小塩節著「ゲーテ街道を行く」が大変良い道案内となった。
     実際に旅立ったのはその翌年5月,3人の旅それも田舎道を行く行程でここは小塩先生の薦めに従ってレンタカーで行くこととした。この街道の丁度中程にフルダと言う小さな町がある。ゲーテも良く行き来した所でゲーテが常宿としていたホテルがありここにはゲーテが好んで注文したと言うゲーテメニューも用意されている。夕食をこのゲーテメニューで済ませた後翌日はフルダの博物館を訪れた。昔の領主の館つまりお城で庭園付きの立派な建物である。中に入って驚いた。いきなり出てきたのはガラスケースの中に展示されたブラウン管である。最初は何のことか訳がわからなかった。Braunがブラウン管を発明したのは彼がストラスブルク大学(当時はドイツ領)の先生をしている時であることは承知していた。しかしストラスブールではその痕跡を示すものは何も見かけなかった。それが何故ここフルダで?

     ショウケースの横を見るとK. F. Braunの写真があり更にその横には彼の略歴が記されていた。ここで始めて彼が1850年フルダの生まれであり1907年ノーベル賞を受賞していることも知った。 C.F.Braun略歴.JPG 

    K.F.Braunの略歴

     1850年フルダで生まれた彼は高校時代までをこの町で過ごす。その後マルブルク,ベルリンで学び1872年博士号取得,1874年には点接触ダイオードを開発している。その後カールスルーエ,ストラスブルク,チュービンゲン等で教鞭を執った後1895年再びストラスブルクに戻りその後23年間の物理学研究者としての生活が始まる。ブラウン管に関する研究開発は1896年以降行われていたがその成果を1897年に公開する。これがいわゆるブラウン管の発明と言われているものである。彼の研究は無線通信にも及び,特に高性能の送信機を開発し1898年にはブラウン式送信機として特許登録が成されている。そして1909年無線通信に関しG. Marconiと共にノーベル物理学賞を受賞する。無線通信に関しては一般にG. Marconiが有名でここで連名で受賞したのは二人の共同研究によるものかと考えたが実はそうではなく二人はむしろライバル関係にあった模様である。1914年Braunは始めて渡米するが彼の送信機特許をめぐりMarconiとテレフンケン社を相手とする特許係争事件で証言を行うためであった。結局Marconi もBraunの特許を使用したことを認め1918年Braunは勝訴するがその年そのままニューヨーク・ブルックリンで亡くなってしまう。遺骨は1921年フルダに戻って埋葬された。
     ノーベル賞は無線通信のみに与えられブラウン管には与えられていない。これは今の感覚からすると一寸奇異な感じもするが今から丁度100年前1909年の時点に戻って考えると無線通信については当時でも将来展望が大きく開けていたのに対しブラウン管についてはテレビへの応用は一部予見されていたものの現在のようなコンピューターを中核とした情報化社会の出現は全く夢想だにされていなかったに違いないと言うことを考慮するとやむを得ぬ事であったのかも知れない。
     実はつい最近東欧旅行のついでにこの地を再び訪れるチャンスがありこの展示も改めて仔細に観た上でこの報告を記すつもりでいた。所が実際に行ってみるとかっての展示は見当たらない。係員に聞いてみると隅の方にかつての数分の一の規模でひっそりと展示が行われ,代わりに彼の業績を記したドイツ語の小冊子が用意されていた。

     更に聞いてみるとBraunの生家が直ぐ近くにあることが判りそこも訪れてみた。
     何れにしてもブラウン管の時代は既に過去のものとなってしまったことを改めて痛感した次第である。
     Braun生家.jpg Braun生家表示.jpg 
    K.F.Braunの生家

    生家の表示

     今回の東欧旅行はこの後プラハ,ワルシャワ,クラコフ,ブダペストと続くがこれについては又稿をを改めて報告することとしたい。

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