東海道五十三次の松並木を歩く/西道夫@クラス1955
記>級会消息 (2009年度, class1955, 消息)
5月末、浜松市内での会合の翌日、唯一残されている松並木や宿場などを歩いて来た。
1.行動:浜松から下り東海道線に乗る。高塚、舞阪、弁天島を過ぎ、浜名湖の遠州灘への出口を越して新居町(あらいまち)に着く。ここまで15,8kmである。駅の西方0,8kmにある新居関所まで歩く。駅に戻り、上りの電車で舞阪に戻る。駅から南へ200m歩くと旧東海道に出る。そこから西方向700mが松並木の道である。1号線と交差した後は街路となる。岐佐神社、脇本陣、弁天神社を訪ねた後、弁天島駅から浜松に戻った。
2.新居関所:建物は1860年のもので、そう古くはないが、綺麗に修復され、横に資料館が設置された。周囲も整備された。今回は朝8時過ぎに着いたので入れなかったが、資料館には江戸時代の交通や旅に関する資料や当時の厳しい取り締まりの様子を示す資料が展示されている由。機会があれば、再度行って見たいと思う。(写真:前庭と建物など) |
3.松並木:江戸幕府が1604年に街道に松を植えさせたもので、現在は約700mに大小340本の松が道路の両側に並んでいる。太い松の直径は50cmもある。垂直に立つ松は少なく、殆どはいろいろな方向に傾いている。素晴らしい景観であった(写真)。なお道路は舗装され、東方向に一方通行である。 |
4.脇本陣:先ず脇本陣とは何かを説明する。江戸時代の宿泊施設として、次の四つがある。
(1)本陣:大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設。平屋建を原則とするが、ほかの旅籠屋と違い、門・玄関・上段の間などを造ることが許されていた。
(2)脇本陣:本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたる。平常、旅籠屋を営んでいるが、大通行の時など、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめた。脇本陣には本陣と同じく宿場の有力者が選ばれ、江戸時代中期以降に出現した。大旅籠を改造、転化したものが多く、そのため二階建の場合が少なくない。また、本陣と同様に門構・玄関の両方か或いは一方を構えた。
(3)旅籠屋(はたごや):武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの旅宿。
(4)木賃宿(きちんやど):旅人が薪代を払って自炊する宿屋。
舞阪宿は江戸から30番目の宿場である。現在は当時を偲ぶ町並みは無いが、天保9年(1838)建築の旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていた。旧東海道では唯一の脇本陣である。この貴重な脇本陣を後世に伝えるため、建物が復元された。費用は2億円強要したとのこと。写真は上段の間にあぐらをかく小生を案内人が撮ったもの。 |
すべて案内人のおばさんの指示に従った。このおばさんは時々ボランティアで案内人を勤める由。他に来館者が居なかったので、上高地にご主人ドライブで2泊したとか、増富温泉(山梨県にある日本有数の高濃度ラヂューム温泉)に行ったら、お客の半分以上はお乳が一つのお客だったとか、結局1時間ほどお邪魔してしまった。街道に出て、脇本陣の写真を撮影した。 |
5.神話の世界:
(1)岐佐神社には本殿の横に高さ60cm程の赤い石が立っている。大国主命が兎を助けた後、ここで火で焼かれたが、住民がこの赤石の粉で治療し、快復したとのこと。
(2)弁天島(駅はこの島にある)のあたりに天女が舞い降りたが住民の応対が悪かったので、天女は三保の松原に行ってしまった。その後、海が荒れ続けたので、漁師達が弁天神社を建て、祈ったところ、海は静かになった。
6.特産品:脇本陣のおばさんが是非買うように、と言ってくれた焼き海苔を海産物の店で買った。「混ぜ海苔」で、黒海苔と青海苔を混ぜたもの。1帖(10枚)350円程。磯の香りが素晴らしい。この町でしか買えないようで、このために再度探訪してもよい、と思う位である。 以上
2009年7月20日 記>級会消息