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  • クラス1953新(昭28新)

    【戦い敗れた日/中川和雄】

    8月15日はラヂオをみんなで聞きましたが、例によって私には全然聞こえません(注1)

    通常は聞こえなくとも事後の話しから、おおよそのことはさとるのですが、この日ばかりは放送が終わっても、誰もなんにも言いません。重苦しい沈黙のままでした。私はなにもわからずにその日は終わりました。敗戦を知ったのは翌16日です。

     17日、出勤すると、鈴鹿海軍航空基地の格納庫前には、「まだこんなに沢山残っていたのか!」 と思うほど 多くの海軍機が翼を並べていました (注2)

    注1) 私は小学校入学の前に中耳炎を患い、両耳ともに鼓膜を失いました。その後、長く難聴が続いています。
    注2) 昭和20年、中学3年の私らは学徒勤労令によって、第二海軍航空廠 鈴鹿支廠 に勤務、激しい戦闘や訓練で不調になる実戦機の修理・調整に努めていました。

    基地周辺に散在していた掩体壕に温存されていたのでしょう。驚くほど多数の実戦機が並んでいました (注3)

    翌18日朝には、並べられた実戦機すべてはプロペラを取り外されていました。「軍用機の武装解除はプロペラをはずすことだ」と聞きました。私は口惜しく、無性に口惜しく、残念でなりませんでした。

    その夜、仕事を終えて電車の駅から疎開先(注4) まで 山越え8km の帰路を歩いていました。山を越えた時には、真夏の日もとっぷりと暮れ、真っ暗な畷みちを急いでいたとき、前方はるかにポツンと明かりが見えました。灯だ! 気がつくと、灯火は水田の彼方、集落に、遠くの山裾に、一つ、一つ、点々と連なっていました。厳しい戦時体制下には、絶えて久しく見ることのなかった家々の灯でした。長く続いた灯火管制は解除されたのです。暗い夜空に瞬く星の下、黒々と起伏する山裾に点々と灯る明かり。それは私には例えようもなく美しく見えました。美しい灯! 平和の今なら なんということもない家々の洩れ火ですが、この時ばかりは、眼に滲み入るような美しさをもって映るのでした。“ああ 戦争は終わったんだ”、“敗けたんだ”という冷酷な現実が、この瞬間に、初めて実感をもって胸に激しく突き上げてくるのでした。長かった戦いの日々、張りつめていた意地も、敗戦の悔しさも、全身の気力も、すべてがこの瞬間に崩れ落ちていくようでした。うつろな気持ちのまま、魂の抜け落ちた私は噎び泣きながら、行き交う人影とてない真っ暗な田んぼ道を、ひとり辿っているのでした。

    こうして私の戦後は始まりました。

    注3) 戦後の「帝国議会に対する終戦経緯報告書」 (「終戦記録」、朝日新聞社、昭和20年11月) によれば、海軍 関係機数損耗表;開戦時保有数 1,200機、戦時中総生産数 30,295機、終戦時保有数 5,886機、損耗数 25,609機となっています。つまり、敗戦時には開戦時の4倍以上の実戦機を保有していました。南方戦線に増派しにくくなっていた情勢もあったと思いますが、私は本土決戦に備えて温存していたと考えています。我が国は戦力を喪失したから降伏したのではないと思っています。
    注4) 昭和20年7月28日夜、米空軍の無差別爆撃を受けて郷里津の街は壊滅、私の家も全焼しました。その後、一家は鈴鹿山系に近い叔父の家に間借りしていました。

    ==コメント==

    工場動員では、海軍機「銀河」の補助タンクを作らされました。昭和20年になると、飛べない木製の偽装飛行機を作らされました。本物の飛行機は隠しておいて、飛行場に並べ敵機の襲撃を受けるものです。開戦時より終戦の時の飛行機の数が多かったことなど想像もしていませんでした。戦争が終わって、人も暮らしも明るくなったのは印象的でした。
    Posted by 錦織 孜 at 2009年08月02日 12:04

    私が終戦を迎えたのは中学2年の夏でした。疎開先の山奥で、軍用(?)道路の土方仕事、山からの松根油用松材の切り出し運搬などの重労働に従事していたためか、諸兄ほど鮮烈な印象を持っていません。ただ食って眠る毎日でした。あの戦争は何だったのか、満州国侵略と非難されていますが、いまの中国のウィグル・チベット侵略と何が違うのでしょう。弱肉強食の欧米植民地攻勢に対して冷静な対応を誤った結果であるような気がします。今衆院選を前にして各党はバラマキに狂奔していますが、かつての軍部のように、本質を見誤った宴を演出しているのでしょう。何ともやりきれぬ毎日です。
    Posted by 工藤 康 at 2009年08月02日 12:54

    私の故郷群馬県伊勢崎市が空襲を受けたのが8月14日の夜だった。母と2人で避難した近くの川原で、目の前対岸の民家に焼夷弾の束が落下し、一瞬で炎の柱と化した。一夜明けて帰ると、道一つ隔てた隣家まで焼け落ちたのに、我が家の1ブロックだけが残っていた。まだ煙の立ち上る中、隣の工場の中庭で終戦の詔勅のラジオをきいた。とても暑い日だった。それから、長い戦後の暮らしがはじまるのだが、辛い思いでも薄れて、ほんとうに、いったいあれは何だったのだろうと思う。
    Posted by 中西成美 at 2009年08月03日 22:46

    九州博多の我が家に落ちた焼夷弾は、幸い不発で 生き残ることが出来ました。諸兄の「いったいあれは何だったのだろう。」という想いの重さを後世に残すべく、今秋から放送大学の教壇に立ちます。講義の題目は「技術の社会的構成」で、電気技術発展の歴史を社会的視点から振り返り、技術者の倫理を問いつつ、エネルギーの無駄遣いによる地球環境の破壊を食い止める方策を聴講生とともに探って行きたいと考えて居ります。
    Posted by 荒川文生(1965卒) at 2009年08月19日 11:29

    一回り年の違った同窓のかたからコメントをいただき感謝しています。私たちは中学生でしたからまだ幼いころの強烈な思い出だったのですね。放送大学といえば、会社を定年退職した後大学で14年教鞭をとっていた時に放送をよく聴き参考にさせていただきました。ご専門の技術発展史などを土台にして地球環境の保護を願われる荒川先生の講座を楽しみにしています。
    Posted by 錦織 孜 at 2009年08月20日 11:44

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