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  • 福島第一原発事故の拡大(その三)/濱崎襄二

    リンク(その一その二、その三)

    – (10) 今回の地震・津波に耐えたと思われる原発の実態調査の重要性 ? –

    報道によれば、今回の巨大地震と巨大津波に襲われたと思われる既設原発の中で、福島第一原発第5, 6号機、福島第二原発各号機、東海原発各号機、女川原発各号機は地震後、本来の意味で「冷温停止」を継続・維持しています。今回の地震・津波が襲った時、これらの地震・津波に耐えた原発は如何なる状況にあったのでしょうか?これらの原発では、壊滅に到った福島第一原発第1 ~ 4号機において疑われた非常時無責任態勢((3) 福島第一原発事故拡大の人災 の記述を参照)が起こっていたとは考え難いのです。夫々の原発で「時間」との闘いがあり、その闘いに打ち勝って炉心冷却の継続、或いは、再開に成功して「冷温停止」状態に到ったものと推測されます。勿論、夫々の原発の建設時期に従って技術的進歩の取り入れ方が異なっていた事も大きな違いであったでしょう。しかしその上に、人為的な要素、例えば非常事態における指揮系統、現場責任者・作業員の能力など、の違いがあったのではないかと思っています。(内閣の直接指揮が無かった事は能力発揮に必要不可欠であったでしょう。)事故拡大阻止に尽くした、顕彰されるべき功労者が多数いた筈です。

    現今、福島第一原発第1 ~ 4号機の事故は、事故調査・検討の対象の 99 % を占めています。しかし、今回の地震・津波に耐えたと思われる原発における「時間」との闘い、「冷温停止」に到った過程・実態の調査・検討は、今後の原発安全運転の基本参考資料として極めて重要です。これらの実態調査の中に現今の報道には現れていない、日本の将来に希望を抱かしめる、真摯な科学技術者の実像がある事を願っています。

    – (11) 第二次大戦中の経験を想起させる類似事象 –

    今回の原発事故拡大の報道を見ますと、第二次大戦中の経験を想起させる類似事象が幾つも起こっています。日本人口の6%以上を死に至らしめた所の、無謀な、無責任な、悲惨な戦争と敗戦とから学んだ、血に塗れた教訓を、日本人は忘却したのでしょうか?今度の原発事故拡大では、「原発安全」を仄めかす喧伝に隠れて、万一の重大事故に対する装備・準備を怠った無謀さが遠因になり、大津波が襲った時の、指揮系統の無責任さが実際の事故を拡大しました。日本人は、第二次大戦中の先人の犠牲を嘲笑する程に軽薄・厚顔・無恥・傲慢になったのでしょうか?

    次に第二次大戦中の経験との類似性を列挙する事にします。

    / 1./ 「大本営発表」 を想起させる虚偽の発表・宣伝による欺瞞

    第二次世界大戦中、戦争遂行の中核機構であった「大本営」は、世界情勢の現状を隠蔽し、戦線の実態と損害とを隠蔽するため、「民心の動揺を防ぐ」ためと称して、虚偽の発表・宣伝を繰り返し続けました。今回の原発事故拡大では、「日本政府」発表に、余りにも重大な「民心操作のための」虚偽が含まれました。国民を信頼しているのであれば、即刻に真実を知らせ、然るべき備えを促す事が必要でした。

    /1.1./ 2011年3月11日深夜より報道された炉心部の格納・容器の安全宣言

    全電源喪失時の残存冷却機能には、各原子炉により優劣があったようです。実際には、3月11日深夜より、(老朽化にも拘わらず二酸化炭素排出量削減のために稼働していた)1号炉において炉心損傷と、これに伴った放射性物質漏洩が起こり、暫くして福島第一原発敷地正門付近で微量の炉心由来の放射性物質が検出され始めました。3月12日から3月16日の期間に次々と炉心熔融(メルトダウン)が起こりました。しかし、内閣官房長官は炉心部の安全宣言を出し続けました。同じ時期に、首相発令の不用意なベント命令によって数次に亙る建屋の水素爆発が誘発され、炉心放射性物質の爆発的な漏洩・拡散が発生しました。

    炉心熔融の事実は、IAEA国際調査団が来日する直前まで国民には隠蔽され続けました。国際調査団来日直前に原子炉事故の深刻性を示すレベルが突然2段階引き上げられました。これらの事は、政府責任者が国民に対して故意に虚偽の発表・宣伝を行った事を示します。

    事故から 6ケ月(今では 1年9ケ月)を経た時においても、炉心状態については、水素爆発と炉心熔融とによる破損を免れたと推測された計測器の指示値と、実態が観察・確認されていない状態における炉心モデルとを用いたシミュレーション計算値から推測されているに過ぎません。政府の「事故終息宣言」以後も、破損した炉心の実態把握には程遠い状態です。政府が用いる「冷温停止」という術語も、本来の意味では使われていません。

    /1.2./ 汚染範囲を過小に見積もった公表

    広域に亙る浄水場の水が放射性沃素によって汚染されている事実が判明した時(3月下旬)、広範囲に亙る放射能汚染は明らかでした。破損した原子炉から多量の放射能物質を含んだガスが空気中に流されていた期間を通じて(3月12日 ~ 3月18日)、海風が継続的に飯館村方面に向かっていたとは考え難い事です。海風は方向を変えながら吹いていた筈です。政府が定めた所の、汚染範囲を示す警戒区域と計画的避難区域と緊急時避難準備区域は不適切で且つ過小評価である事は明らかでした。肉牛の飼料とされた宮城県産稲藁が放射性セシュウムで汚染されていたことが報道されたのは、2カ月も後の事でした。その間に各々の放射性物質は夫々固有の半減期に応じて減少していたのですから、水素爆発が起こった 3月中旬の放射能強度は格段に高かった筈です。放射線量測定においても、初期段階では意図的に空気中に漂うものが測定対象とされたため、地上の草木、土砂に蓄積された放射能物質が明らかにされませんでした。汚染範囲については、政府が国民に示した情報よりも、外国人の一斉引き揚げが開始された時に外国大使館が持っていた情報の方が、より正しいものでした。(事故から 1年余り経ってから、2011年3月中旬以降の汚染分布図が、何度にも亙って、米国から日本政府機関に送られていた事が判明しました。)

    / 2./ 「総動員令」 下と類似した「恫喝的」政治指導

    第二次世界大戦が始まった頃、「戦時総動員令」が発令され、憲兵隊と特高警察が中心になって、言論、物資の統制と、「非協力」 分子の排除とが行われました。大戦中の 「総動員令」 下では、上は政府中枢から、下は村役人に到るまで、「恫喝的」政治指導が徹底していました。非協力分子と見做されると、徴兵、徴用、隣保組織からの疎外、等の手段を駆使して、その排除が行われました。「恫喝的」指導は、相互信頼と協調互助を圧殺するもので、共同体の潜在能力を無に帰する結果を招きます。

    福島第一原発事故発生後 1年を経て、先年3月11日に第一原発の1~4号炉の全電源喪失が原子力安全・保安院に伝えられた後に、その後に予測される炉心挙動が問題になり、「炉心溶融が起こる」との発言があった事が、報道されました。発言者は、この発言の直後に首相に更迭されたと聞いています。この時、真実を語ろうとした人が直ちに排除されました。この頃に議事録廃棄、記録禁止が発令されたのではないか?と疑われます。このような人事権濫用による「恫喝的」政治指導は、過去・現在の独裁者の常用手段です。彼らは機密費を用いて部内に密告組織を配置し、恣意的に情報を操作し、自分に不都合な真実を語る人を直ちに排除します。今回の命令者と典型的独裁者との相違は、排除した人々を投獄・殺害しなかった点でしょう。

    以下に菅内閣以降の閣僚に見られた「恫喝的」政治指導の例を挙げましょう。

    1. 大津波翌日午前における東京電力存続に関する申し渡し
    2. 事故原発の注水作業に動員された東京消防庁職員に対する申し渡し
    3. 宮城県庁における復興予算配分に関する申し渡し
    4. 浜岡原発停止を示唆する談話発表の手法
    / 3./ 「一億総懺悔」と類似した国民共同責任論

    第二次大戦の敗戦から間もない頃に、戦争に引き込む事によって国民の生命・財産を滅ぼし、全国主要都市を廃墟に導いた「最高指導者」の責任を問わずに、戦争に引き込まれた国民に責任転嫁する目的で、報道機関を通して流された標語が「一億総懺悔」でした。

    「原発安全神話」 は広く日本中で信じられていたという虚構があります。この話に関わる議論は、「原発安全神話」 は日本中で信じられて来たのだから、原発事故拡大の責任は国民全体にあると主張したいと見受けられます。しかし、この話の前に、先ず、今回の原発事故拡大を放置した所の、政府の直接責任者、原子力安全委員会委員、東電責任者(最高責任者はもとより、事故拡大の防止に力を尽くさなかった安全当事者)の刑事責任を明らかにしなければなりません。その過程で事故拡大の真実の姿が顕れてくるでしょう。その上で、国民の税金で補わねばならぬ補填分の検討が可能になります。

    / 4./ 「非国民」 のレッテル貼りと類似した言論抑圧の兆候

    過去において我が国では、水力は無限のエネルギー源であると考えられていた時代がありました。しかし、その規模拡大につれて環境維持との整合が難しい事が判明しました。そして、化石燃料の重視、次には原子力へと、エネルギー源が拡大移行されました。このように、少なくとも当面の間は、(即ち、電力料金の高騰を伴わないで、原発が賄っていた電力を代替発電設備によって供給できるまでの期間、)国力維持の目的に叶う量の電力エネルギー確保のためには、原発を稼働しなければならないと考えられます。そのためには、如何にして原発を安全に稼働できるか?が当面の最も重要な課題です。

    しかし現今では、原発の安全運転のための方策を提案・議論することは、原発の即時全面廃止のスローガンを掲げない事を理由に、方策提案、議論そのものを抑圧しようとする風潮が見られます。この風潮は第二次大戦中、現実的将来問題について議論をしようとする人々に対して、往々にして「非国民」のレッテルを貼って言論を封殺しようとした事を想起させます。この「非国民」レッテル貼りによる言論を封殺は、秘密警察が操る「愛国的無責任集団」を表に立てた所の、恫喝的政治指導の一手法でもありました。

    原発の即時全面廃止をスローガンとする集団は、再生可能エネルギーで原発の電力を補い、「電力の安定供給」を達成できるでしょうか?「それは技術屋の仕事であって、我関せず」 と云うのならば、それこそ無責任集団の極です。技術屋の職場環境を劣悪化して、所謂「理科離れ」を起こしたのも、「終身雇用制」を打ち壊して若者の就職口を激減させ、工場流出を主導したのも、この無責任集団であったからです。この「無責任集団」による活動は、往々にして、「市民運動」と呼ばれました。

    / 5./ 「無敵日本」 と類似した 「経済大国」 と 「技術大国」 の幻想

    「経済大国」と「技術大国」と云う言葉は奢りを誘発する謀略的な宣伝用語です。真に 日本が「経済大国」であったならば、外国から流入した巨額の投機資本によって(意図的に)金融バブルが引き起こされ、その収拾のために日本の国家資本が損なわれる事(1989年~2005年、バブル発生・崩壊・収束)はなかった筈です。国民総生産額GDPは「経済大国」の指標の一つでしかありません。日本は過去の貧困・窮乏の時代と比較して資本蓄積が増え、今では飽食・肥満の民衆が溢れています。しかし、国内技術者がいなくなり、人件費が高騰し、生産工場が無くなって、人々は就職できずに無気力になっていく、そのような「経済大国」が在り得るのでしょうか?天然資源に乏しくそれを輸入によって支えるための国防力(国際貢献力)も無いに等しいのに「経済大国」でしょうか?「経済大国」と云う言葉は、巨額の国際拠出金を支出する名目として、使われているかにも見えます。

    「技術大国」 と云う言葉も謀略的宣伝用語でしょう。日本において、世界を動かす技術が創造された事があるでしょうか?古くは、農業、冶金、文字、筆、紙、の発明から、近年は、鉄鋼船、鉄道、電気、電信機、自動車、飛行機、真空管、更には、ジェット機、核エネルギー、半導体、電子計算機、ロケット技術、遺伝子組み換え、これら全ての技術は外国で創造され、輸入されて日本に根付いた、或いは、根付くように努力されているものです。その過程において、多くの日本人の創意工夫が重ねられた事は重要な事実であり、その成果には誇るべきものもあります。しかし、現今では、技術屋の職場環境は低賃金・重労働の場と化して、その結果として 「理科離れ」 が起こっています。

    福島第一原発の備え付け炉心冷却電源が突然の大津波によって作動不能に陥った時、予備電源車も予備ポンプ車も無く、それらを時間内に取り寄せる指揮者も補助者もいませんでした。放射能汚染が広がった時、放射能汚染環境で働くべきロボットが一台も存在しませんでした。このような国は「経済大国」でも「技術大国」でもあり得ません。

    第二次世界大戦中には、真実を隠蔽し、言論を統制した環境下で、「無敵日本」と云う言葉が用いられ、世界中を敵に回した戦争に日本国民を駆り立てました。真実を探求するならば、「無敵日本」と云う言葉が妄言(願望であっても真実ではない)である事は明らかでした。しかし、真実を探求する人々は「非国民」のレッテルを貼られて疎外・排撃されました。 我が国が戦後遂げた経済的な発展、技術的な進展には著しいものがあり、その結果として今日の日本人の生活を支える輸出産業があります。その産業を支えるべく多数の原発が建設されました。「経済大国」 と「技術大国」と云う言葉が、過去の「無敵日本」と類似した意味で、真実を隠蔽し、奢りを誘発している事を戒めるべきです。しかし他方では、我が国の経済的発展、技術的進展を過小評価すべきではないし、それらを達成してきた自信を失ってはなりません。原発事故拡大を乗り越える科学技術を求めて、冷静、沈着に研究、開発を進める事が眞の「経済大国」を追い求める道でしょう。

    / 6./ 「関東軍将校」を想起させる近代的「組織人間」

    第二次世界大戦の前夜時代、旧満州駐屯陸軍は 「関東軍」 と呼ばれました。彼等は「尽忠報国」のスローガンの下に「個々の良心」を忘れて謀略を事とし、その結果として張作霖爆殺事件を起こして満州を軍事支配しました。「関東軍」と云う組織に属した少壮気鋭の将校は、組織に忠誠を誓う証として「個々の良心」を忘れて強盗・殺人を犯し、引き換えに「昇進」を得ました。

    1980年過ぎ、米国 IBM 社が開発していたソフトウェアが日本大企業の社員によって盗まれて訴訟が起こったと云う報道がありました。その時の日本の報道論調が余りにも当該社員に同情的であった事に、私は驚愕しました。隣人の物を盗んで自分が属する組織に貢ぐ事が、組織に忠誠である証になる、とは私の理解を遥かに超えていました。「エコノミック・アニマル」と云う言葉も、経済的利益のみを追求する組織の組織人間を指すのでしょう。

    今回の原発事故拡大に関する余りにも不可解・不条理な事実の陰に、組織人間の姿が見え隠れしています。その一例は、この原発事故拡大と云う人災において、中枢責任者を告発する人がいない事です。

    – (12) おわりに –

    以上、思いつくままに今回の原発事故に対する私の所感を述べて見ました。このような所感は、夫々の個人の過去の経験に根ざすものでしょう。私の場合、昭和 6年、満州事変勃発直後に生を享け、年齢 13歳 9か月の時、勤労動員令の中で敗戦を迎えました。幼年時代から少年時代にかけて、千島列島は勿論の事、台湾も、南樺太も、朝鮮半島も、南洋群島も、日本の領土でした。小学校、中学校の同級生には、内地は勿論、これらの地方(外地)からの転校生がいました。満州国との交流は日常・頻繁の事でした。昭和13年、小学校に入ると、物資統制、配給制度が始まりました。

    若者が応召して産土神社で武運長久を祈り、そして、悲しかった事に、子供の眼にも敬愛すべき好青年は、早く、白木の箱に入った戦死者(英霊)として迎えられる事になりました。戦争が激しくなるにつれて、巷では、物資、食糧が不足し、闇取引が横行しました。徴兵忌避の願望者が溢れました。兵営は人間を驢馬に仕立て替える場所の様相を呈しました。戦死公報は日毎に増えました。昭和20年春には、私達の命も長くないと思っていました。事実、沖縄の首里第一中学校の同年生では、200人余りの中で 86人が(殆ど主戦闘終息後)に戦死していました。私達は「終戦の詔勅」と「米軍の占領政策」とによって、辛うじて命を繋いだ世代なのです。

    成長期における時代の流れが絡んだ所の過去の経験は、一年、一年、顕著な違いがあります。昭和6年生まれの私は、昭和7年生まれの人々とも、昭和8年生まれの人々とも相当に異なる面があるのです。敗戦後の経験も、同様に、異なりました。人々を戦争に駆り立てていた多数の人々が、敗戦後、一夜にして反戦主義者、「民主」主義者に転向しました。そして、彼らは過去の証拠隠滅と、敗戦の混乱に乗じた利益・利権の獲得に奔走しました。戦死者の遺族は貧窮の中で白い目で見られ、ただ耐え忍ぶのみでした。心ある周囲の人々も手を差し伸べる余裕は僅かでした。人々の心情・道徳は非常事態の時に顕現します。戦争と敗戦の原因を回顧・探求しようと云う時、原経験の差異が顕れます。

    今回の東日本大震災の受け止め方、福島第一原発事故拡大の受け止め方にしても、私には、第二次世界大戦末期における都市の焼け野が原と、戦争を起こして拡大した「A 級戦争犯罪人」の所業が、二重写しになります。今回の場合、「東京裁判(極東軍事裁判)」が存在しないので、そして、日本の検察は今や骨抜きと見られるので、原発事故拡大による国民的重大損害の責任者については、告発者もいないままで有耶無耶に済まされるのではないかと大いに危惧しています。そして、事故拡大の直接責任者は、自分の奢りと無能さの故に拡大した事故を、如何に軽度で収束できたかと讃えて、自画自賛するのではないかと危惧しています。敗戦後二十年を経た頃、「一億総白痴」に対する警鐘が鳴らされました。今回の原発事故拡大の報道を見ていますと、現実に到来したかと思う事、頻りです。

    長文の所感になりましたが、読んで頂ければ幸甚と存じます。此度の福島第一原発事故拡大は、私の人生終末期の出来事としては、この上無く遣る瀬無い事件でした。何十年もの間、私が懸命に育てようとした工学者も技術者も、大多数は既に第一線を退いています。報道を通して見せつけられたのは、傲慢不遜と相互不信と虚偽欺瞞と無能無責任とに満ちた、今日の「社会的指導者」の群でした。福島第一原発事故拡大においては、報道に現れた限りでは、真実を尊び、誠実勤勉で実力に満ちた工学者・技術者は消え失せていました。二千年余りの間、日本列島で紆余曲折の中を生き抜いてきた日本人は、今後、広い世界の中で生抜く事ができるのでしょうか?

    「なでしこJapan」のワールドカップ優勝は、暗闇の中の光明を見る思いでした。天賦の気力と体力とに恵まれた(選抜されたエリートである事を自覚した)彼女等が、最も謙虚に真実を見つめ、誠実な努力を重ねて技量を磨き、相互信頼に徹して勝利を祈ったからこそ、勝利の女神が微笑みかけたと思っています。何時でも優勝できるものではありません。日本民族は、「なでしこJapan」の優れた所を「鏡」として、明るく世界に羽ばたいて行きたいものです。(終) (文責 濱崎襄二)

    リンク(その一その二、その三)

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