米国の中の東欧/小林凱@クラス1955
記>級会消息 (2012年度, class1955, 消息)
6月16日の武田兄のリトアニアに関するブログ記事は大変興味あるものでした。その中に書かれた数行の記載が、半世紀以上も前の私の記憶を呼び起こしてこの投稿となりました。
1957年私は米国東部(Pennsylvania州)の町ピッツバーグ(Pittsburgh)に住んでいた。その年のクリスマスの頃友人からユニークな行事があるからと誘われて、ここに住んでいる世界各国の人々の歌や舞踊の会を見に行った事がある。市が主催か支援して居た様で、会場はピッツバーグ大学などが集まるオークランドの丘のホールであった。
出演者はこの地に移住してきたか滞在している各国の人で、素人が原則だったと思う。内容はそれぞれのお国の歌や民族舞踊を披露するもので、1件5,6分といった短い演奏だが沢山の国が参加し、国ごとに違った衣装や歌は珍しいものも多く、観客席も同様に様々な国の人たちで埋まって楽しい機会であった。そして出演は一国一チームが原則で、如何に沢山の人が住んでいる国でもこの様に運営している様であった。
そのなかで私の印象に残ったのがリトアニアからの人達で、美しい民族衣装の娘さんたちが晴れやかな姿で歌を披露していた。当然同じバルト海沿岸のラトビアやエストニアからも出ていたのだろうが其処までは記憶にハッキリしていない。その一方で米国に南北で接するカナダやメキシコ、また大戦前後を通し多くの移民が来たイタリアなど沢山の移住者が居た筈だが、そうした国もバルト海の国々も皆平等の一票扱いが非常にすっきりした感じであった。
ところでこの頃、1950年代のバルト三国はソ連に併合されて居て地図には出て来ない時期であった。しかしピッツバーグの人たちはそんな事を一切気にする風もなく、出演者達を独立した国の人々と同様に盛んな拍手で迎えて居た。偶々その頃は東西冷戦の真っ盛りで、且つソ連のスプートニクが宇宙開発に先駆けたことで米国人の自尊心が大きく傷ついた時期であった。このクリスマスの民族交歓会の運営にも、何かそういった感情の裏返しが入って居ないか勘ぐってそっと友人に訊いて見たが、その様な意図は全くなくバルト三国の人たちとは以前からこの様に接して居るとの事で、私はかえって浅慮を恥じた記憶が残っている。
そう言われて見ると、リトアニアからの出演者達が舞台の上で楽しそうに輝いて見えたのが判る様な気がする。
この水運に加え流域一帯は大量の石炭が産出したから、英国で開花した産業革命がいち早くこの地に波及したのは当然である。そして19世紀中程に起きた南北戦争ではこの町は北軍の武器供給基地となる。その結果戦争が北軍の勝利で終わった19世紀後半のピッツバーグでは、後にこの国の重工業の中核となる企業が一斉に活動を開始する。
これを地勢と歴史の必然とすれば、偶然もまたこの町の特徴を更に色濃いものにしていった様である。後にUS Steelの基礎を作るAndrew Carnegieは1848年、13才の時にスコットランドから両親とこの地に移住してきた。George WestinghouseはNew Yorkの出だが、その事業展開をこの町に求めてやって来た処で鉄鋼業の発展に合流できた。彼は元々鉄道技術者で長大列車の運行に必要なブレーキシステムの特許を持ち、これが石炭や鉄鉱石の大量輸送に欠かせない要素となった。また同じ頃MITを出た若い技術者のHallは、電解法によるアルミニウム精錬の実用化の取り組みを開始し、これが後のALCOAに発展する。
この様に19C後半から20Cにかけて、この町では米国のIndustrial Giantsの芽が一斉に吹き出していた。 この過程で産業界の構造にも大きな変化が始まる。南北戦争以前は作業員100人を使う工場は大企業であった。(写真2、川岸と谷あいを埋める製鉄所群) |
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製鉄所群
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それが20Cが始まる頃には一変して数千人が働く大工場が相次いで建設されると共に、そこに必要な新しい人手を求めて鞄一杯にドル札を詰めた採用担当達が旧大陸へ繰り出して行った。
かって移民の主体は英国からでこれにScotland、Irelandと続いた頃は、ニーズの中心は技術者とSkilled labourであった。それが大量のUnskilled workerに変化し主な供給地もハンガリー、スロヴァキア、ポーランドからバルト海沿岸へと移って行った。それと国家統一間もないイタリアも南部がMan powerの供給源になった。
この状況をピッツバーグ市の記録から知る事が出来る。1881年と1900年の20年間の変化で見ると、ポーランドからの移住者は5,614人が114,847人に、バルト海諸国は5,041人が90,787人に、イタリアからは15,401人が100,135人に激増している。
一方先住民族(?)での傾向を同期間の変化で見ると、Great Britainからの移住者は81,736人が12,509人に、Irelandからは72,342人が35,736人に、Scandinavia諸国は81,582人が31,151人に、ドイツからは210,485人から18,507人に激減している。
ところでこの町の人口は1910年が553,905人、1920年には588,343人だったから、同じ年度の記録でないにせよ如何に移住者の比重が高かったか判る。またその過程で移住者構成が変化して多くの東欧の人と共に文化が入って来た事が推測できる。
(注)上記の人口は行政区画の市が対象で、20C後半は周辺の町で人口が拡大しそれを含めた経済圏は数倍になっていた。1970年代このGreater Pittsburghの人口は約150万人と言われ、一方旧市内は472,000人と減少してドーナッツ現象が進んでいた。実際私が住んで居た所も正確には周辺の町であった。
この町も他の東部の古い州同様にフランス人と英国人のせめぎ合いを経て、アングロサクソン主体に国が形成されていった歴史がある。例えば町名や道路名にもFranklin Ave.やDuquesne Blvd.などその歴史を反映しているものが多い。この都市の骨格は19C中頃には出来ていたから、東欧から来た人たちはその骨組みに吸収される形で社会に溶け込んで行き、此処に新しく地名を持ち込む事は無かったと思う。その一方ここに住んで判ったのは、東欧の人達の深い感情がこの町の底辺に流れていることで、それは私の様な他所から来た人間には余計感じられた事かも知れない。
ただこの町はその生い立ちから沢山の移民により作られて来たから、住民は外から来た人たちに対し優しかったのではないかと思われる。移民に取り言葉や風習の違いの苦労は何処でもある通りだが、ポーランドやリトアニアの人達もここでは民族間や国の対立は無く、新しい国での生活基盤の取り組みに専心過せたのではないだろうか。
19C後半から鉄道や鉄鋼の労働者による大きな争議や暴動もこの地は経験しているが、そこには民族の対立は無かったし、人種問題が顕著になるのは後年からである。私がピッツバーグに初めて行った1950年代は既に2度の世界大戦を経験して居り、その過程を経て人々の一体感の形成は進んでいたと思われる。
ただしかしこの様な工業化の進展過程で社会構成は二分化され、少数のTop groupを事業経営者、Business people、金融関係者達が占め、他の大多数がIndustrial workersである構成が出来上がって行く。これは添付写真の中で、巨大工場を囲む丘の頂上までびっしりと家が並んでいる様子がそれを物語っている。(写真3、数Kmも連なる電機工場) | |
電機工場
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それから更に半世紀以上の歳月が過ぎた。この町に栄えた鉄鋼業は1970年代を境にして急速に衰退期に入る。川岸に君臨していた製鉄所の高炉は長い間赤錆の巨体をさらして、また電機メーカーのWestinghouseも1997年に解体した。しかしそのあと古い高炉は解体され跡地には新しいシステム関係の企業が操業する様になっていた。
リトアニアから来た人たちも移民から一世紀余りが過ぎ、今では世代も仕事もすっかり変わっている事と思う。
これが武田兄のBlogに刺激されて、古い記憶と資料の掘り起こしに入り込んだ結果です。
(Ref.)Stefan Lorant, The Story of an American City
2012年7月1日 記>級会消息
リトアニアの人たくの多くは、リトアニアと似た気候風土の土地を選んで移住したようです。シカゴ周辺とか、とにかく、寒い地域に多く移住したようです。僕の友人も、数年前に、一家でカナダのトロントに移住しました。
コメント by 武田充司 — 2012年7月1日 @ 18:57