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  • リトアニア史余談5:カウナスのライスヴェス大通り/武田充司@クラス1955

     カウナスの人がベルリンのウンター・デン・リンデンにも負けないと自慢する「ライスヴェス大通り(※1)は、カウナスの町の中心を東西に走る長さ1.7kmの大通りである。その西端は中世の面影を残す旧市街に通じている。

     1972年5月14日の昼過ぎ、労働者夜学校に通う19歳の青年がこの大通りに面する公園(※2)で3リットルの灯油をかぶり、「リトアニアに自由を!」と叫んで焼身自殺をはかった。青年は病院に運ばれたが、ひどい火傷のため間もなく息をひきとった。青年の名はロマス・カランタ(Romas Kalanta)。彼が残したノートには“Only the system is guilty of my death.”という意味のリトアニア語の走り書きがあった(※3)

     彼はカウナスの中学校を卒業する年になったとき、公然と神学校に入って司祭になると言い出した。ソ連共産党の厳しい統治下にあった当時のことだから、これはとんでもないことだった。そんなことを公言していれば、そのうちに、彼自身だけでなく両親や身内の者にまで災難が降りかかってくる。しかし、彼のこの言動を学校関係者から聞かされ、注意された彼の父親は、ちょっと肩をすくめただけだったし、母親は「嘘を言うよりましです」と言ってのけた。父親は勲章までもらった第2次大戦の勇士で、戦後は共産党員になっていた。

     当時、リトアニアでも、カウナスのような都会には西側で流行っていたヒッピー風の若者がいた。この公園の向かいの建物には共産党委員会が入っていたが、公園の広場には、いつも何人かのヒッピー風の若者がたむろしていた。破れたジーンズに長髪という姿の彼らは、密かに中央アジアあたりから持ち込まれた乾燥大麻を吸いながら暗くなるまで、ただ黙ってラジオ・ルクセンブルグ(※4)を聴いていた。しかし、時々、共産党の民兵がやってきて、「この社会主義社会のくず野郎ども!」と怒鳴りながら彼らを警棒で殴りつけ、共産党委員会のガレージに連行し、出血するまで痛めつけた挙句、頭を丸坊主にして放逐した。

     ロマス・カランタは長髪で一見ヒッピー風だったが、決して、この公園にたむろするヒッピー仲間ではなかった。彼がこの公園に来たのはこの時だけだったという。この日、当時アメリカでヒットしたミュージカル「ヘアー」の上演がヒッピーたちによって密かに計画されていた。上演時間は30分と決められていた。この短さだと、共産党の民兵が感知して会場にやってくるまでには上演は終了してしまうという計算だった。ところが、ロマス・カランタの焼身自殺によってこの企ては延期を余儀なくされた。

     このとき以来、毎年5月14日になるとロマス・カランタの死を悼んで、キャンドルを灯した大勢のカウナス市民が公園に集まってくるようになった。そして、彼の死後30年を経た2002年、カウナスに住む彫刻家ロベルタス・アンティニス(※5)が制作した記念碑がこの公園につくられた。記念碑といっても、これは伝統的な形のものではないので、何も知らない旅行者や観光客には気がつかないだろう。この風変わりな記念碑とは、公園の芝生の植え込みを縁取る19個の不規則な形をした褐色の分厚いプレートである。19枚のプレートで構成されていることすら注意深く数えてみなければ分からないが、この19という数はロマス・カランタが焼身自殺を遂げたときの年齢である。また、この褐色の縁取りの直ぐ近くには、公園のプロムナードの敷石代わりに埋め込まれた大きなプレートがあり、そこに「ROMAS KALANTA 1972」と刻まれている。以前は、こんなに大きな横長のプレートではなく、「ROMAS KALANTA」の下に「1972. V.14」と2行に刻まれた小さな褐色の石盤が埋め込まれていただけであったが、この正方形の石盤の位置こそがロマス・カランタが自らの命をかけた場所であった。
     この場所には、あまりに強烈な情念が充満しているので、それを抑える静かなものを作りたかったというのが、制作者ロベルタス・アンティニスの言葉である。また、あるリトアニアの彫刻家は、これはカウナスにこそ相応しく、決して首都ヴィルニュスには生まれない芸術だと評している。
    〔蛇足〕
     (※1)ライスヴェス大通り(Laisves aleja)とは、「自由の並木道」(Liberty Avenue)という意味で、ソ連統治時代にもその名を変えずに押し通したところにもカウナスの人の反骨精神が現れている。道の中央部分が2列の街路樹によって縁取られ、その外側も歩道で、全体が完全に歩行者専用となっているのが特徴である。
     (※2)この公園はライスヴェス大通りの西端近くの南側にあり、そこから少し西に行くと旧市街である。公園の向かいにはヴィタウタス大公像がある。
     (※3)the systemは、勿論、当時のソ連の体制を指しているのだが、こういう言い方は「システムに対する戦い」などのように、当時、よく使われていたようだ。
     (※4)スウェーデンやデンマークなど近隣の自由主義諸国からの放送はソ連当局の妨害電波によって聞き取れないので、かえって、遠くのラジオ・ルクセンブルグの微弱な電波に聴き入ったのだ。
     (※5)Robertas Antinis: 彼はこの年(2002年)に、この記念碑の制作などの功績によって国家功労賞をうけた。
    $00A0(2012年6月 記)
    2 Comments »
    1. 毎度Wikipediaの受け売りで恐縮ですが、下記URLに公園の記念碑のことが写真入りで紹介されています。
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF

      コメント by 大曲 恒雄 — 2012年7月1日 @ 12:07

    2. Wikipediaの情報有難うございます。僕は写真が苦手なので助かります。久し振りに、あのプレートを見ました。あれを注意して見てくれる観光客は少ないので、ちょっと宣伝してみたのです。

      コメント by 武田充司 — 2012年7月1日 @ 19:07

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