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  • クラス1953新(昭28新)

    【故郷/中川和雄】

    昨年度の冬学期末、近くの大学で受講していた「自然資源経済論」の最終講義は「福島原発被災からの復興・再生を考える」と題する市民公開シンポジウムでした。参加者は大教室をほぼ満たしました。シンポジウムが終わるころ、主催の教授から「被災地の復興を祈って、『故郷』を合唱したい」と提案されました。参加者は全員賛同し、懐かしい小学唱歌『故郷』の歌詞が正面スクリーンに投影されました。

    教室を満たした二百数十名の合唱が進むにつれて、故郷(三重県 津市)にも厳しかった戦中・戦後が、想い出となって重なってくるのでした。

    「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」

    長兄が中学生だった昭和10年頃までは兎狩りは県立中学の学校行事でした。近くの里山の麓を低学年生が取り囲み、草むらにひそむ兎を上へ上へと追いあげます。頂上近くには上級生が網を用意して待ち構えています。逃げあがってくる兎を追いかける様子などを兄は楽しく話してくれました。私らの時代は戦争で、兎狩りは既になくなっていましたが、戦後、山越え7kmの通学の帰途、春には少し道を外せば陽だまりの斜面には、わらびがびっしりと芽を出していました。夏にかけて水を張った田んぼでは無数の田螺が拾えました。これらを採り集めて帰ると、母が煮付けや木の芽和えに美味しく料理してくれました。

    「如何にいます 父母 恙なしや 友がき」

    敗戦の日、父は50代半ば まだ若く元気でした。けれど戦災によって家と家財と蓄えのほとんどを失った父には、戦後の日々はあまりにも苛酷でした。間借り生活が続く昭和21年2月17日 突然、金融緊急措置令が施行されました。いわゆる新円切替えです。翌月2日限りで、それまで流通していた紙幣は効力を失います。手持ち現金はすべて銀行に預金するほかありません。そして預金は封鎖です。一ヶ月に戸主300円、家族は一人につき100円しか引出せません。わが家は八人家族。一ヶ月 1000円に過ぎません。さらに加わったのがいわゆる復金インフレ、すなわち 政府全額出資の復興金融公庫貸出しに基因するハイパー インフレーションはわが国近代経済史上 最も激しいインフレーションでした。貨幣価値は日に日に下落していきます。家業は戦時下に公布された企業整備令により心ならずも廃業していて、所得はありません。八人家族が生きるため、父はその再開に努めました。もとより焦土の街に店舗を構えることは望めません。行商です。復員した兄たちも暮らしをたてることに懸命でした。それまで重いものを持ったことのない母も重い風呂敷包みを背負って村々を回りました。社会の激変に生活は苛酷でした。父の傷心は深く 体力も気力も みるみる衰えました。そして・・・・・ 敗戦の日から僅か一年八ヶ月。昭和22年5月3日、新憲法施行の夕べ、父は失意のうちに世を去りました。共に苦労を重ねた母も既に亡くなりました。

    生活に事欠く戦災家族に、親切にしてくださった村の人々にも、失礼したまま長い々々年月が流れ去りました。鰻取りを教えてくれた子供たちはその後どうしたのだろう。彼らの鰻取りは実に巧みだった。教えてもらっても私は、彼らに はるかに およばなかった。

    昭和20年11月、政府の議会への終戦報告によれば、市街地を狙った米空軍の無差別爆撃による罹災者数は8,054,094といわれます。夥しい人々は焦土と崩れさった国土に、この国の復興と生活の再建を切に希いました。「必ず元に戻す!」と焦土に誓った人々は多かったと信じます。被爆の翌日。まだ火照っている街の舗装を踏んで、我が家の焼け跡に立った中学3年の私もその一人でした。疲れきった人々は懸命に働きました。そして以前に優る豊かさを戻しました。長く苛烈だった復興の日々、戦い敗れた人々を内に抱いて めぐる里山の起伏も、清らかに流れる河川も、故郷の山河は、こよなく優しく美しかった。

    「山はあおき 故郷 水は清き 故郷」

    合唱は終わりました。

    敗戦の惨禍にすべてを失いながら懸命に生きた日々も、今は懐かしい思い出となり、余韻は淡い感傷さえ伴って胸に沁みてきます。隣席の学生さんたちに話しかけてみました。

    「あなたたち山に兎を追ったことありますか?」

    「うさぎ? 山に兎がいるんですか?」

    話はかみ合わないようです。

    「川で鮒を釣ったことはありますか?」

    「・・・・・」

    彼はなにか怪訝な顔付き。私は両手の人差し指を十糎くらいに開いて

    「ホラ。これくらいの小さな鮒。釣ったでしょう」

    彼は納得しました。スクリーンに映し出されている歌詞を指さして、

    「あの漢字(鮒)、フナと読むのですか?」

    「・・・・・」

    時代は遠く流れ去りました。

    里山に 昭和は遠く なりにけり。

    ==コメント==
    日本の黄金時代に青春時代をすごしたものからコメントをするのは、大変恐縮ですが、同郷のものとして一言。津の町が戦災にあったということは聞いていましたが、中心からはずれた橋北地区のものとしてはよくわかりませんでした。昔から津の町並みが、城下町であるのに、何の特徴もなく、新開地のような雰囲気があったのは、戦災で古いものが全て無くなったためですね。城はあっても、石垣だけで、津藩の遺構は片鱗もありません(伊賀市にある津藩校支校・崇廣堂は関西最古の藩校遺構だそうです)。司馬遼太郎の「箱根の坂」に、北条早雲が京から伊勢国安濃津(あのつ、津の昔の名)から駿河に船で出る描写があり、津は小京都と表現されています。古いものが残っていれば、伊勢・松阪・伊賀に負けない観光地になっていたと思います。古い建物といえば、 旧県庁は、私が小学生の頃、穴のあいた廊下でかけっこをしたりした遊び場でした。化石堀りをしていた山に今の県庁ができ、古い建物は明治村に移築されました。私にとっても、「里山に 昭和は遠く なりにけり」です。
    Posted by 前川務 at 2012年09月28日 20:28

    ==コメント==
    前川 務 様
    コメントありがとうございます.
    同じ津市に同窓の方がいらっしゃるとは今まで知りませんでした.失礼しました.
    津市は昭和20年3月から敗戦までに7回の空襲に曝されました.最も酷かったのは7月28日,市の住宅街を狙った焼夷攻撃で,夜10時頃からの数時間で約73 % が炎上しました.市の中心商店街にあったわが家はこの空襲で街とともに全焼しました.
    「津の町並みが新開地のよう」とは,貴コメントで私も初めて気づきました.「城はあっても,安濃津藩の遺構は片鱗もない」.おっしゃられる通りです.残念で淋しい限りです.
    藤堂藩32万石の居城として津のお城は,初代高虎公が築城を得意としたこともあってか,かなり大きかったようです.遺構は既に堀と石垣を残すのみでしたが,南堀は広大で蓮が密生し,夏の朝には,深い松林をいただく城壁を背景に,蓮の花々が美しい古城の風景を彩っていました.東堀には製材所の貯木場があり,その筏を漕ぎ出すなど私ら小学生のよい遊び場でした.
    そのお堀も戦災の瓦礫処理のため,みんな埋め立てられてしまいました.
    橋北地区はあまり詳しくありませんが,JR津駅の東,参宮街道に沿った町筋は,京都・奈良でメインストリートをちょっと横にはたずれた町通りにしばしば見られるような連子格子の古風な店舗が連なっていました.皆さんの「遊び場だった」旧県庁舎は,明治初期の代表的な洋風官庁舎でした.戦後もかなり長く使われたと記憶します.正門を入った右手の二階に教育委員会があったと思います.橋北のことは前川さんの方がよくご存知かと思います.失礼しました.
    県庁から少し離れた県会議事堂は米軍に接収されました.正面には「Mie Military Government」と表示されていたのを思いだします.
    コメントありがとうございました.
    Posted by 中川和雄 at 2012年10月01日 08:08

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