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  • 私の生涯/齋藤成文

    父、齋藤成文は今年で96歳を迎えています。ここ1、2年で脚や記憶力と思考力が衰えた事を悲観するようになっています。

    しかし、自分が生きた太平洋戦争や戦後の日本の成長期の事、そして深く係わった日本の宇宙開発について、後世の人達へメッセージとして残したい思いは強いようです。誰に請われるともないのですが、「遺言」のような形で、原稿用紙に書き綴ったものを、何回か分けて私に託するようになりました。

    96歳の父の脳裏に強く残っている人生の思い出を、私なりに汲み取り、文章に編集しました。20代の戦時中の鮮明な思い出を綴った1章は、父の最近の震える手で書いた原稿によります。戦後の東大第二工学部やMIT留学時代、帰国後に参加した東大のロケット事業に関する2、3章は、父の最近語る話しから、東大第二工学部の歩みをまとめた資料[1]を再構成しました。父は、40代、50代以降には、国としての宇宙開発の確立に努力していきました。この点については、最近の父が語る話の内容を、過去に父が執筆した文献[2、3]を参考にして、4章に構成しました。

    (齋藤宏文<(独)宇宙航空研究開発機構教授、クラス1976>)

    1.戦時体制でのレーダ実用化

    私は、東京帝国大学工学部電気科を昭和16年12月に短期卒業し、翌年1月第二工学部の教官となると同時に、海軍技術士官に任命された。そして、技術中尉、後に、大尉となり、海軍技術研究所に勤務した。当時、電波探知機(電探)と呼ばれたマイクロ波レーダの実用化研究を行った。しかし、既に、米軍では、このマイクロ波レーダは既に実用化されていた。戦後、私が留学することになる、MIT(マサチューセッツ工科大学)等も含めて、軍産学での研究開発がそれを支えていた。

    一方、我が国では、昭和19年、我が国の敗戦が濃厚となってきた状況で、ようやく、艦船にマイクロ波レーダ装置を装備する事となった。大和、武蔵を含む数十隻の艦隊が呉軍港に集結した。私達、海軍技術研究所の全員も、東京からの特別列車にレーダ装置を積み込み、呉へと向かった。そして、海軍工廠の技術者と協力して、艦隊にレーダを装置する任務を行った。

    そして多忙を極めた作業の後、最初の艦船にレーダ装置の整備が完了した事を、キラ星の如く並んだ海軍将官の前で報告した。やれやれ、これで東京へ帰れると内心思っていた。しかし、技術研究所の上官から、第二艦隊司令官の前で、「齋藤大尉、第二艦隊司令部付として、シンガポール沖で、レーダ技術指導をせよ」との命令がくだされた。こうして、私は、第二艦隊付きとして、シンガポール沖において、約2か月、レーダ技術指導を行なった。

    シンガポール沖でのレーダ技術指導も終わり、世話になった第二艦隊士官達に日本に帰国する事を報告した。彼らから羨ましがられたのを鮮明に記憶している。彼らの多くは帰らぬ人となっている。当時の環境では、死はそれほど特別なものではない存在であったが、優秀な人材が数多く失われたものである。

    その後も、私は、国内で艦船搭載レーダの技術指導等も行った。昭和20年には、東大物理学科の霜田光一さん(現在、名誉教授)らのグループが設計したレーダ装置を、陸軍の一式陸上攻撃機(一式陸攻)に搭載し、海軍三沢航空隊において、我が国初の航空機搭載レーダの試験を行った。八甲田山や三陸海岸がはっきりブラウン管に写ったのを鮮明に記憶している。

    昭和20年8月14日、米艦隊の猛攻により三沢航空基地が全焼した。翌日、東京へ列車で帰る途中駅で天皇の終戦勅諭を伺うことになる。

    2.終戦後、第二工学部とMIT留学[1]

    終戦後、私は、東大第二工学部教官として、西千葉キャンパス(現在の千葉大学)に勤務した。第二工学部には旧軍出身者や新制度の学生などがおり、キャンパスに芋を栽培して空腹をしのぎつつ、必死に学び生きていった。しばらくはまともな研究などができる環境ではなかったが、昭和23年ころからは、マイクロ波装置を使ってマイクロ波帯の誘電体特性の精密測定を行った。この技術は、海軍技術研究所の在留技術者らが設立した島田理化工業の第一号の開発製品につながった。

    昭和30年には、かつて敵国であったアメリカのフルブライト資金により、MITに留学する機会を得るという幸運に恵まれた。そして、アメリカのレーダ技術を支えていたMITエレクトロニクス研究所で、2年間、電子ビームの雑音に関する研究を行った。2年間のMITでの研究は、アメリカの学界でも評価されるものであり、必死ながらも楽しい日々であった。当時は敗戦からわずか10年ちょっとであり、日本とアメリカの技術力と国力の差は驚くべきものがあった。帰国する際には、日本の発展のためにどう貢献できるか、希望と不安が交じり合った気持ちで、帰国した。

    3.東大のロケット事業に参加[1]

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    昭和35年9月、秋田県道川海岸ロケット実験場、観測ロケット K(カッパ)-8-3,4号機の打ち上げ実験にて

    東大第二工学部は、東大生産技術研究所に衣替えして、東京の六本木(現在の新国立美術館)に移設されていた。そこでは、終戦後、禁止されていた航空宇宙関係の研究が再び許されるようになって、航空工学の糸川英夫教授らがロケット開発を開始していた。ロケットや衛星の開発に、私の研究が貢献できることは考えてみると、遠距離まで飛翔するロケットや人工衛星からの微弱な信号を使う追跡や通信で、マイクロ波の雑音にどう対処するかの問題が思い浮かんだ。そこで、当時低雑音増幅器として注目されつつあった、パラメトリック増幅器を研究して、ロケット追跡用レーダに適用した。

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    昭和36年3月、秋田県道川海岸ロケット実験場、観測ロケット K(カッパ)-8-5号機の前で。向かって左から、齋藤成文、野村民也(当時東大 生産研教授、宇宙通信工学)、森大吉郎(当時東大生産研教授、ロケット構造工学)
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    昭和38年、太平洋岸の鹿児島県大隅半島内之浦に人工衛星打ち上場を建設した(現在はJAXA のロケット射場になっている)。写真は昭和39年 頃、ロケット追跡レーダ用の直径4mアンテナを前にして。向かって左から、齋藤成文、高木昇(当時東大宇宙航空研究所長、昭和6年東大電気卒業)

    このことを契機に、東大の観測ロケットや人工衛星打ち上げ事業に深く関わるようになった。昭和36年からは、鹿児島県内之浦町に人工衛星を打ち上げられるロケット発射場や、人工衛星追跡用の大型パラボラアンテナの建設の責任者にもなった。生産研の様々な分野の研究者の力をお借りした。建築系の坪井善勝教授には、パラボラアンテナの構造面での設計を、土木の丸安隆和教授には写真測量、航空機測量を組み合わせた測量を、建築の渡辺陽教授、勝田高司教授には施設建築物の設計をお願いした。こうして、昭和38年には、鹿児島宇宙空間観測所は完成した。ほとんどすべての工学分野が結集して、ひとつのプロジェクトの完成に協力していくという、生産技術研究所の真骨頂が示された作業であったと思う[1]。現在はJAXAの発射場として引き継がれており、小惑星探査機「はやぶさ」や、イプシロンロケットの発射にも使用されている。

    昭和39年には、東大宇宙航空研究所が設立された。生産技術研究所のロケット関係のスタッフは、大部分、新設の宇宙航空研究所に移動したが、私は生産技術研究所に在籍したまま、宇宙開発のプロジェクトに参加した。

    4.国としての宇宙開発体制の確立

    その頃、私達の宇宙航空研、生産研のグループは、国産の固体ロケットであるラムダ4Sロケットを用いて、内之浦の発射場から人工衛星打ち上げを行う事に挑戦していた。しかし、ロケットの段間分離等の問題により、その試みは四度失敗した。私達は四面楚歌の状況に置かれ、発射場のコントロールセンターの一室が唯一の気が許せる場となっていた[2]。ロケットグループの総帥である糸川英夫教授は東大を去り、電気グループを率いていた高木昇教授は病に倒れた。

    その中で、昭和45年2月11日、5回目の挑戦にして、ついに、人工衛星「おおすみ」の打ち上げ成功に辿り着いた。私はコントロールセンターで飛翔データを眺めながら、生涯の感激を味わった。

    成功に至るまでの東大の4回の打ち上げ失敗は、1大学が人工衛星打ち上げを行う事へのマスコミや国会審議を含めた大きな論議と批判を招いた[3]。(注、現在まで、1大学が人工衛星を打ち上げた例は、東大しかない。)その中で、当時の科学技術庁は、昭和44年には宇宙開発事業団(NASDA)を発足させ、三菱重工の協力を得て、アメリカからの技術導入をベースにして、人工衛星打ち上げを国の体制で行おうとしていた。おおすみの成功で、技術的には先んじた(とやや思い上がった)東大と、国の威信をかけた体制の下での宇宙開発を行おうとする行政の対立という構図となった[3]。

    最近になって、三菱重工の宇宙部門でロケット開発に担当された冨田信之氏が書かれた、科学技術庁と三菱重工のロケットグループから見たロケット開発史の原稿を、長男宏文から見せてもらう機会を得た。当時は対立していた2つのロケット事業について、冨田氏への伝言のつもりで、長男に次のような事を話した

    当時の東大ロケットの担当メーカである日産自動車は、全社体制でロケット開発を進めていたわけではなかった。(その後、日産自動車の宇宙部門は石川島播磨重工の翼下に入った。)

    また、東大のロケット開発は、大学人の個人的な熱意と強烈な個性に支えられていた側面が否めない。それは長所ではあったが、欠点でもあった。東大のロケット開発をリードしてきた糸川教授は、上述の社会の批判の中で東大を辞職した後、ロケットグループを引き継いだ主要メンバーを、ご自分で開いた組織工学研究所のオフィースにお呼びになった。そこで糸川先生が話された事は、私にとって耳を疑う言葉であった。「君たちだけでは、人工衛星計画は遂行できないから、もうやめなさい。」 私は、即座に「いや、自分たちでやります。」と宣言した[2] 。

    その糸川先生の言葉に反発する気持ちで、その後、玉木章夫、森大吉郎、野村民也、秋葉鐐二郎教授らとともに、幾度の失敗を乗り越えて、東大の科学衛星計画を進めていった。

    その後の、日本の宇宙開発は、実用衛星の開発と打ち上げは政府の意向を受けた宇宙開発事業団が担当し、科学衛星の開発と打ち上げは東大が担当するという、2元的な体制で進められる事となった。ご承知のように、平成15年に、この両者は統合され、宇宙航空研究開発機構(JAXA)として現在に至っている。

    私は、昭和49年から17年間にわたり、政府の宇宙開発方針をまとめる宇宙開発委員に任命され国の宇宙政策に関わる事となった。後年のそのような経験から考えると、「国の宇宙開発の基幹ロケット開発を1大学が行う事」を要求した、当時の私達東大グループの態度は、国の施策のなかでは、分不相応の要求であったと思う[3]。

    最後となるが、独創性を重んじ自由な発想を持つ大学人と、着実に国の施策として宇宙開発を進める機関の方々が、互いの立場を理解して「人の和」を重んじて、日本の宇宙開発を進めていっていただきたいと思う[3]。

    (東京大学名誉教授、クラス1941)

    参考文献
    [1] 東京大学生産技術研究所篇、「未来に語り継ぐメッセージ」、2012年
    [2] 齋藤成文、「宇宙開発秘話」三田出版会1995年 p.298-299
    [3] 齋藤成文、「日本宇宙開発物語」三田出版会1992年 P46-47.

    2 Comments »
    1.  齋藤さんの海軍技術士官時代のお話を、今回初めて詳細に伺えました。特に第二艦隊司令部付として行われた、シンガポール沖でのレーダ技術指導は印象深く拝見しました。(第二艦隊といっても、日本海軍の連合艦隊の主力であることは、文献:Wikipedia レイテ沖海戦;大岡昇平著レイテ戦記、などに記されています)これらの文献には、レイテ海戦でレーダが、相当の性能を発揮して、役立ったことが記されていて、素晴らしいことだったと思います。
       ついでながら、レイテ島へのマックアーサーの上陸阻止に戦った、比島派遣十四軍の第十六師団長牧野中将は、昭和19年3月までは、小生が陸軍技術中尉として物理学の教官を務めた、陸軍予科士官学校の校長として、親しく軍務に関して指導された温厚篤実な方であったことも、何かの因縁でしょう。

      コメント by 渡辺 勝 — 2015年1月19日 @ 19:02

    2. 私は東北大学で音響工学を専攻しました。富士通が宇宙開発に参加するということで入社しました。その中で日本が米国よりCOMSATの衛星管理もやってほしいとの要請があり、KDD研究所より管理システムの開発を委託されました。当時、通信系の開発メーカには衛星管理に必要な天文関連技術はなく、斉藤成文先生に相談しましたところ、東京天文台の古在由秀先生を紹介されました。早速、古在先生にお会いし天文学分野の軌道計算技術の指導をうけました。この分野は工学分野と同じ計算技術でどうにでも応用が利くことが分かりました。斉藤先生にはこの旨申し上げたところ、さらに先生のお持ちの資料や国会図書館での資料の紹介をうけました。結局、NASAの追跡管制システムであるGTDSを上回る精度を持つシステム開発に成功し、NASDA、宇宙
      研で使用されるようになりました。斉藤先生のご指導がなかったらここまではとてもたどり着けなかったのではないかと、今でも考え感謝しております。

      コメント by 小坂 義裕 — 2016年6月16日 @ 19:06

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