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  • リトアニア史余談36:国境の画定と国交断絶/武田充司@クラス1955

     中央リトアニア共和国、すなわち、リトアニアの首都であったヴィルニュスとその周辺地域が、1922年4月、正式にポーランドに併合されたが(※1)、それからほぼ1年を経た1923年3月15日、国際連盟は、ポーランドによる不法な領土併合を追認する形で、ポーランドとリトアニアの間の国境を画定した(※2)。

     この年(1923年)の1月にリトアニアがクライペダ地域を武力併合していたが(※3)、そうしたことが、国際連盟にリトアニアの国境画定を急がせたのだった。それと同時に、国際連盟はポーランドとソヴィエト連邦を区切る国境線の画定を行った。
     モスクワのボリシェヴィキ政権とポーランドは、1921年3月に締結された「リガ条約」によって「ポーランド=ソヴィエト戦争」を最終的に決着させていたが(※4)、ポーランドとソヴィエト連邦の国境線の画定はこの「リガ条約」を基礎になされた(※5)。
     ところが、それは、リトアニアが1920年7月12日にモスクワで結んだ平和条約(モスクワ条約)とは相容れないものがあった(※6)。しかも、ボリシェヴィキ政権の外務人民委員(外相)ゲオルギー・チチェーリンは、「リガ条約」は何ら「モスクワ条約」に影響を与えるものではなく、「リガ条約」締結後も「モスクワ条約」は完全に有効であると宣言した。そして、リトアニアがポーランドに譲歩しない限り、ヴィルニュス地域はリトアニアの主権下にあるとして、リトアニアの立場を擁護した。
     このとき、モスクワのボリシェヴィキ政権は、ヴィルニュス地域がポーランドの支配下に入るよりもリトアニア領となっている方が、将来、この地域を奪還し易いと考え、リトアニアに好意的な外交を展開したのだった(※7)。こうして、ヴィルニュス地域の帰属問題はリトアニアとポーランド両当事国間の問題となり、国際社会から見放された形となった(※8)。
     一方、ドイツとの国境交渉は難渋し長引いた。リトアニアは1923年1月にクライペダ地域を武力併合し、翌年5月、「クライペダ協定」が調印されてクライペダ地域がリトアニアに帰属することになったのだが(※9)、それから4年近く立った1928年1月29日、ようやく、ドイツの東プロイセンとクライペダ地域を区切る国境が画定され、ベルリンにおいて国境画定合意書が調印された。
     こうして第1次世界大戦後に独立国となったリトアニア共和国の国境はすべて画定した。しかし、首都ヴィルニュスをポーランドに奪われたリトアニアは、ヴィルニュス地域のポーランド支配を認める如何なる行為も拒否し、ポーランドとのあらゆる外交関係を断絶するという強硬な態度を貫いた (※10)。そして、この不幸な断絶を打ち砕くには、さらなる不幸の一撃、第2次世界大戦勃発の危機が迫るまで待たなければならなかった(※11)。
    〔蛇足〕
    (※1)「余談:ポーランドによる中央リトアニア共和国の併合」参照。
    (※2)この国境線は、1920年11月に設定された非武装中立地帯(「余談:実施されなかった住民投票」参照)を分割するような形で設定され、グロドノ(Grodno)からヴィルニュスを経てラトヴィアのダウガウピリス(Daugavpils)に至る南北に走る鉄道線路に沿って引かれたが、この鉄道そのものはポーランド領内にあった。すなわち、国境線はこの鉄道線路の西側に引かれた。現在、リトアニアの首都ヴィルニュスから国道A1を西に向かってカウナス方面に車を走らせて暫く行くと、何もない道路の右側(北側)に小屋がぽつんと立っている。注意しないと見落とすほど何気ない風景だが、この小屋が当時のポーランドとの国境にあった建物である。車でこの小屋の前を通る度に当時のリトアニア人の怨念のようなものを感じた。
    (※3)「余談:武力によるクライペダ地域の併合」参照。
    (※4)「余談:赤軍の再侵入」の蛇足(※5)参照。
    (※5)「リガ条約」は1921年3月18日に調印されたが、この交渉で、モスクワ側は、ミンスクを含む現在のベラルーシ西部をポーランドに割譲するという大幅な領土的譲歩を示した。ところが、奇妙なことに、ポーランド側はこの提案を拒否した。その理由は、この地域にはポーランド人が少なく民族国家としてのポーランドにはお荷物になるというものであった。こうした考え方は、ポーランド代表団の中に含まれていた6人の国会議員からなる特別なグループによって支持されていた。この奇妙な交渉によってポーランドは「ポーランド=ソヴィエト戦争」によって獲得した占領地のかなりの部分を失ったが、それでも、英国外相ジョージ・カーゾンがポーランドとソヴィエト連邦の国境線として提唱していた「カーゾン線」より東方に200km以上も余分な領土がポーランドのものとなっていた。こうしたことも原因して、国際連盟の主要国は「リガ条約」の承認を渋った。さらに問題であったのは、この条約は国際連盟の代表者を交えずに締結されていたことだ。しかし、フランスはポーランドを擁護した。そして、条約締結から2年経った1923年3月、フランスの後押しで、ようやく、「リガ条約」は英国、フランス、イタリア、日本によって承認され、その翌月には米国も承認した。
    (※6)「モスクワ条約」では、リトアニアの首都ヴィルニュスとそれを含むヴィルニュス地域はリトアニアに帰属するとされていたから、この地域がポーランド領になることは「モスクワ条約」に反していた。
    (※7)この点に関しては、クライペダ地域をリトアニアが併合することに協力的であったドイツも同じである
    (「余談:武力によるクライペダ地域の併合」の蛇足(※11)参照)。
    (※8)「リガ条約」の第3条には、リトアニアとポーランドの国境はリトアニアとポーランド両当事国によって解決することと明記されていたから、(※6)で述べた「モスクワ条約」と合わせて考えれば、ヴィルニュス地域は、リトアニアがポーランドに譲渡しない限り、リトアニア領であることになる。
    (※9)「余談:武力によるクライペダ地域の併合」参照。
    (※10)一方、ポーランドはヴィルニュス地域に関する一切の係争は存在しないとしてリトアニアの主張の正当性を否定し続けた。その結果、両国を結ぶ鉄道も電話回線も、すべてが国境で切断された。ポーランドからリトアニアに向けて発出された郵便物は、一旦中立の第3国に運ばれ、そこで再包装され、その郵便物からポーランドを認識させる文字や印は全て抹消されてからリトアニアに届けられた。
    (※11)第2次世界大戦の危機が迫った1938年3月17日、ポーランドはリトアニアに対して無条件で48時間以内に外交関係を確立するよう迫る「最後通牒」を突きつけてきた。戦争か平和かの選択を迫られたリトアニアは、3月19日、やむなくこれを受諾した。     (2014年12月記)
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