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  • 十戒あれこれ/鳥越寿二

    ○NHKの教養番組“100分de名著”は高齢者にとっても興味深い内容が多い。 6月には「旧約聖書-ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のルーツ」が取り上げられ、西洋の精神史といった大きなテーマや、紛争の絶えない中東情勢の背景を知る上でも、考えさせられる点の多いものであった。

    我々日本人にとって旧約聖書といえば、キリスト教の母胎となった古い歴史を書いた本といった認識を持っていれば足りるようにも思うが、現在のイスラエル国の人々(約800万人)を始め、世界のユダヤ人(1,300万人以上と推計されている)にとっては、この書物に書かれている「十戒」などの文言を、神ヤーヴェのことばとして暗誦し、これを守った生活をすることが、「ユダヤ教徒」という共同体の一員であることの自己認識であるようである。

    ○「十戒」といえば、映画全盛期だった昭和30年代の初めに見たパラマウント映画「十戒」のいくつかの名場面が、昨日のことのように思い浮かんでくる。 BC13世紀に実際にあったとされるヘブライ人(ユダヤ人)のエジプト脱出から、約束の地カナン(パレスチナ)への侵入劇を、チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーという屈指の名優を主役に揃え、当時の最先端技術を駆使して描いた一大スペクタクル作品であった。

    中でも、ユダヤ人が通る間だけ紅海が割れて道が開けるという奇跡の場面や、シナイ山の山頂で神がモーセの抱いている金属板に「十戒」の一字一字を閃光によって刻印して行く場面は観る者に言い知れぬ感銘を与えるものであった。

    1. 汝、我のほか何物をも神とすべからず。
    2. 汝、偶像を彫むべからず。
    3. 汝、神の名をみだりに口にあぐべからず。
    4. 安息日をおぼえてこれを潔くすべし。
    5. 汝の父母をうやまへ。
    6. 汝、殺すなかれ。
    7. 汝、姦淫するなかれ。
    8. 汝、盗むなかれ。
    9. 汝、偽りの証を立つるなかれ。
    10. 汝、貧るなかれ。

    [出エジプト記 20章]

    共同体の成員の間で取り決めたルールではなく、「これらの戒めを守れば、祝福された民としよう」という神から与えられた約束の文言である。

    ○この十戒を受けたヘブライ(ユダヤ・イスラエル)の民が世界史の潮流の中でいかなる軌跡をたどったかを概観してみる。BC 12世紀中頃 モーセの死後、約束の地カナン(パレスチナ)に定着、12部族連合の共同体として生活

    • BC11世紀末? サウルによる統一国家成立 ダビデ王、ソロモン王による最盛期、エルサレム神殿の建設
    • BC932頃 ソロモン王が没、北(イスラエル)王国、南(ユダ)王国に分裂
    • BC722 アッシリア帝国 北(イスラエル)を滅ぼす。
    • BC587 バビロニア帝国 南(ユダ)を滅ぼす。バビロンへの捕囚
    • BC538 ペルシャ帝国 バビロニアを滅ぼす。捕囚者のエルサレムへの帰還、エルサレム第二神殿再建 各地への離散ユダヤ人(ディアスポラ)の出現
    • BC336~ アレクサンドロス大王の東征、ペルシャ滅亡
    • BC312 パレスチナはシリア王国領となる
    • BC142~63 ユダヤとして一時独立
    • BC 63 パレスチナはローマ領となる
    • (AD 30頃 イエスの処刑)

    ○歴史の中で(旧約)聖書はどうやって成立したか。

    • BC5世紀~BC4世紀 ペルシャで官僚になっていたエズラを中心に聖書の編纂開始 モーセ五書成立
    • BC2世紀初め ギリシャ語「70人訳聖書」成立
    • AD90年頃 ヤムニア会議 ヘブライ語の39文書を「ユダヤ教の聖書」とする。 (AD80から90年代 キリスト教4福音書成立) (AD397 カルタゴ教会会議 ギリシャ語27文書の新約聖書と、ヘブライ語の旧約聖書をキリスト教の正典とする。)

    ○「戒」はもともと仏教用語で、仏弟子が修行の規則を守ろうとする、自律的な決心を表白することばである。(これに対し「戒律」というときの「律」は、仏教徒の共同体である僧伽(そうぎゃ)を制度として運営するために定められた規則である。)

    シャカ(BC463~BC383ころ)は自らの修行を通して会得した悟り(目覚め)の体験をもとに、煩悩からの解脱を求める弟子たちに、8つの実践項目「八正道」を教えている。

    1. 正見(しょうけん-正しいものの見方をすること。現象をありのままに見ることと、それらの本性が無常・無我であると見る複眼をもつ)
    2. 正思惟(しょうしゆい-正しい意志・決意をもつこと。修行の完成・目覚めへの決意)
    3. 正語(しょうご-正しくことばを使うこと。ことばの意味・内容をわきまえて)
    4. 正業(しょうごう-正しい行いをすること。後述する仏教の十戒など)
    5. 正命(しょうみょう-正しい生活を保つこと。正しい生活習慣により天命を全うする)
    6. 正精進(しょうしょうじん-正しい努力を継続して積むこと。)
    7. 正念(しょうねん-シャカとその教え、共同体のことを念頭から離さないこと。)
    8. 正定(しょうじょう-正しい精神統一をすること。坐禅等)

    [転法輪経]

    ○仏教はシャカ入滅後もインドを中心に広まって行ったが、原則として出家した修行者個人が解脱して悟りを得ることを目標とするものであった。又、「戒、律」の解釈も時を経るに従って様々に分化して行った。

    このような中で、紀元前1世紀頃から興った新しい仏教運動が大乗仏教である。それは、出家者・在家者を問わず、すべての者がシャカと同じ目覚めに到達することができる。その目覚め(菩提)は、自分の煩悩を絶つ「解脱」にとどまらず、悩み苦しみを持つ一切の衆生を救い助ける「慈悲」の人に転ぜられることであった。仏の弟子(菩薩)になろうとする決意である「戒」も整備され、今では次の「十重戒」がその代表的なものとなっている。

    1. 不殺生(ふせっしょう、殺さない)
    2. 不偸盗(ふちゅうとう、盗まない)
    3. 不貪婬(ふとんいん、性欲を貪ぼらない)
    4. 不妄語(ふもうご、嘘をつかない)
    5. 不酒(ふこしゅ、酒を売買しない)
    6. 不説在家出家菩薩罪過(ふせつざいけしゅっけぼさつざいか、人のあやまちをあげつらわない)
    7. 不自讃毀他(ふじさんきた、自分を偉ぶらない・人を貶めない)
    8. 不慳法財(ふけんほうざい、物心ともにケチケチしない)
    9. 不瞋恚(ふしんい、怒らない)
    10. 不癡謗三宝(ふちぼうさんぽう、「シャカとその教え、仏教共同体」の三宝を謗らない)

    [梵網経]

    ○仏教では当初から、不飲酒が戒となっている。インド独特の風土からの体質的なこともあろうが、不殺生を守って菜食を徹底すると、僅かな飲酒でも酩酊しやすくなる。何れにしろ「酒に飲まれない」という戒は、慈悲の人に目覚めようとする者にとっては当然な決意であろう。こればかりでなくいずれの戒も、頭では理解できても、日常生活の中で静かに実行するとなると、その一つ一つが極めて奥深いものである。

    ○ユダヤ人は「十戒」を天地創造の神の約束として拝受し、人智を超えた神の力を信じてこれを守る。そして生ける神の力の証しとして、出エジプトの奇跡を思い起こす。キリスト教はこうした神への信仰的基盤を受け継いだ上で、更に

    • 旧約聖書の完成者としてのイエスの誕生、新しい教え(福音)と数々の奇跡
    • そのイエスの十字架上の死
    • 3日目の復活
    • 40日後といわれる昇天
    • 50日後といわれる聖霊降臨

    という超越的な出来ごとがあったことを説き、このような神の業への信仰を通して「愛」と「美徳」の実践を可能なものとしている。

    ○仏教の「十重戒」はシャカ自身の体験から教えられた八正道の中でも「4. 正業(正しい行いをすること。)」の具体的な行動規範である。八正道では先ず「1. 正見(正しいものの見方をすること。)」を教えている。「正しいものの見方」とは「私心にとらわれずに物事をありのままに見る」ことと、それによって究極的には「それら一切の物事が本質においては無常・無我な性質をもったもの(空)であると悟る」という、いわば複眼的なものの見方をすることのようである。

    人は自分を中心としたものの見方に慣れて育ち、それをもとに行動している。たとえシャカに説かれても、目や耳や心(頭脳)が自分の中にある以上、自分中心であるのは当然だ、という反論があることだろう。だがこれは太陽や星が地球の周りを周っているようにしか見えない、ということと同じである。真実は地球が太陽の周りをまわっているのである。

    ○「諸行無常・諸法無我」を大乗仏教では「一切皆空」という言葉で表している。「空」はユダヤ教・キリスト教における「神」に対極する概念であろうか。「言葉」は人間の産物であるから、人知を超えた「神」は信ずべきものではあっても、言葉では説明できない存在であろう。一方「一切皆空」の「空」というものは、偶々大震災に遭遇した時とか、傑出した名僧に出会ったような時に、人は、すべての現象の真実は「空」ではないかとの思いに至らされる。そしてそのことを契機として、その人その人が積む修行、日常生活を通して得る「深い体験的な叡智」こそが仏教の空観だ、とでも言うことができるのではなかろうか。

    シャカは「心を空しくしなさい。」、「自分というものをよく考えて見なさい。体や心は絶え間なく動き、働きあっている。」、「周りのものもすべてが支え合って存在している。自分と周りの関係も同じだ。」と聞く相手ごとに分かり易い言葉で教えている。 仏教でいう「無常・無我=空観」は虚無主義(ニヒリズム)ではない。現実からの逃避でもない。目に見え、耳に聞こえ、手に触れるものは、かけがえのない現象的事実 phenomenal worldである。ただ人間は、他の動物や植物とは違って、そういった現象に振り回されることなく、その奥にある真の事実 true realityというものを、複眼的に悟る能力のある存在だと仏教は教える。ものごとは固定しているのではなく、「無常」であって一時もとどまることなく新しくなっているということ。ものごとには「我」という他と無関係な実体は無く、一切は「無我」であるということである。

    こころや行動、従って責任の主体である「私」というものは、疑う余地のない存在であるが、静かに瞑想すると、この宇宙にあって「私」だけが特別な例外的な存在である筈はない。私も一つの宇宙であるとともに、その本質は「無常・無我=空」だと悟るのである。

    自らを「空」とすることができれば、他者や現象に対するイメージや、それに基づく行動は無限に広がってゆく。今まで見えなかったものが見えてくことがある。世の中の問題を解決するには色々なやり方がある、といったことが分かって来ることもある。

    道半ばではあるが「八正道」と「十戒」は、人が安らかで実り多い生涯を送るためのバランスのとれた道(中道 Middlepath )であり、そのための戒めであるように思う。

    ○最後に、平成18年わが国では「教育基本法」が改正され、「宗教教育」についての記述が一層充実されたものになった。併せて「家庭教育」、「幼児期の教育」についての箇条が新設されたことは喜ばしいことだと思う。

    (宗教教育)

    第十五条  宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。

    (家庭教育)

    第十条  父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

    (幼児期の教育)

    第十一条  幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

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