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  • リトアニア史余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦/武田充司@クラス1955

     プロシャのドイツ騎士団本部攻略を目指すヴィタウタスとヨガイラは、その意図を隠してドイツ騎士団の兵力を分散させるために、休戦協定が切れる6月24日(*1)を待たずに陽動作戦を開始した。

     1410年6月14日、ドイツ騎士団本部にはリトアニア軍がニェムナス川下流にあるドイツ騎士団の拠点ラグニットに向って移動しているという情報がもたらされたが(*2)、同じ日に、リトアニア軍がマゾフシェのナレフ川沿いに結集しているという情報も入ってきた。しかし、それ以前に、ポーランド軍がプオツク付近のヴィスワ川に橋をかけているという情報が入っていた(*3)。そして、その後、ヴィスワ川下流の要衝ビドゴシュチ付近にポーランド軍が現れたことが確認された(*4)。
     6月3日、首都ヴィルニュスを発ったヴィタウタス率いるリトアニア軍はポーランド軍と落ち合う約束の地点チェルヴィンスクを目指したが、途中のどこかでナレフ川を渡らなければならなかった(*5)。一方、ヨガイラ率いるポーランド軍は6月26日クラクフを発って北上し、チェルヴィンスクの直前でヴィスワ川に浮橋をかけて渡河し、チェルヴィンスクに入った(*6)。そのとき、ヨガイラのもとに伝令がきて、リトアニア軍はプウトゥスク(*7)付近でナレフ川を渡るので敵の目を逸らす囮部隊を派遣して欲しいとの要請が伝えられた。さっそく陽動作戦部隊が派遣され、リトアニア軍は全軍無事にナレフ川を渡ることができた。そして、7月2日、リトアニア軍はチェルヴィンスクでポーランド軍に合流したが、そのとき、マゾフシェのヤヌシュ1世とシェモヴィト4世の兄弟も手勢を率いて駆けつけた(*8)。こうして3万9千ともいわれる大軍に膨れ上がったリトアニア・ポーランド連合軍(*9)は、翌7月3日、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*10)を目指して出発した。
     ところが、7月5日、戦争回避の最後の調停を試みようとするハンガリー王ジギスムントの密使がヨガイラの野営地にやってきた。これに対してヨガイラとヴィタウタスは和平の条件として非常に厳しい要求を突き付けて使者を帰した(*11)。
     錯綜する情報を分析していたドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、先ず、どういう状況でも対応できるようにヴィスワ川下流西岸のシフィエチェ(*12)に主力を結集させたが、ナレフ川沿いに現れたリトアニア軍に対処するため、シフィエチェから機動部隊を発進させた。ところが、休戦協定が切れて3日後の6月27日、リトアニアの大軍がプロシャ北部に侵入したという情報がケーニヒスベルクから届いた。しかし、そのあと、ジギスムントの密使の情報に接したウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の真の狙いに気づき、直ちに主力部隊を率いて敵が目指しているクルツェントニクに向った(*13)。
    〔蛇足〕
    (*1)休戦協定については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。なお、ドイツ騎士団本部は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)にあって、当時はマリエンブルク(Marienburg)と呼ばれ、難攻不落の城が築かれていた。現在、その城は世界遺産になっている。
    (*2)ニェムナス川はリトアニア南部を東から西に向かって流れてバルトア海の注ぐ大河で、その下流南岸にはドイツ騎士団がリトアニア進出初期の1289年に築いた要塞ラグニット(Ragnit)があった。そこは現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragain$0117)と呼ばれている。
    (*3)「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(10)参照。
    (*4)ビドゴシュチ(Bydgoszcz)は、ヴィスワ川下流の大彎曲部(北西方向の流れが北東方向に転じる地点)の西側、ブルダ川がヴィスワ川に合流する地点に位置し、当時のドイツ騎士団領の南西端に接していた。
    (*5)リトアニア軍は先ずヴィルニュス南西約150kmに位置するニェムナス河畔の拠点ガルディナス(Gardinas:現在のベラルーシ都市フロドナ〔Hrodna〕)に向った。そこで東方のリトアニア支配地域から召集された正教徒諸公の軍団やタタール人部隊が合流して兵力が増強されると、深い森の中をさらに南西に進んでナレフ川東岸に出た。ナレフ川は北東から流れて、途中でブーク川と合流してワルシャワの少し北でヴィスワ川に注ぐが、彼らが目指すチェルヴィンスク(Czerwi$0144sk)は、その地点より更に25kmほどヴィスワ川を下ったヴィスワ川北岸にあったから、どこかでナレフ川を渡って西側に行かなければならなかった。本文で述べたドイツ騎士団の偵察隊が発見したナレフ川沿いのリトアニア軍は、このときナレフ川東岸沿いに渡河地点を探しなだら南下していたリトアニア軍であった。
    (*6)チェルヴィンスクはクラクフの北方約265km地点のヴィスワ川北岸に位置し、下流のプオツクと上流のワルシャワとのほぼ中間にある。この辺りは完全にポーランド領内であるため安心してヴィスワ川を渡ったのであろう。全軍が浮橋を渡るのに3日を要したという。
    (*7)プウトウスク(Pu$0142tusk)はワルシャワの北方約50kmに位置するナレフ川西岸の都市である。
    (*8)この兄弟については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(2)参照。
    (*9)これに対して、ドイツ騎士団側の兵力は2万7千といわれている。これらの数字には諸説あって信頼性には疑問があるが、数的にはドイツ騎士団側が劣っていたことは確かである。しかし、兵器や装備に関しては優劣が逆であったことも確かである。
    (*10)クルツェントニク(Kurz$0119tnik)は、現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodonica)の北東約20kmに位置するドルヴェンツァ(Drw$0119ca)河畔の町である。両軍が集合したチェルヴィンスクからは北々西に約125km、プオツクからは北方に約95km離れている。
    (*11)中立の調停者を装ったジギスムントが実はドイツ騎士団の支援者であったから、この密使も敵陣偵察のスパイであったことは確かで(「余談101」と「余談102」参照)、これをどう扱うかはヨガイラとヴィタウタスにとって難しい問題であった。しかし、彼らは敢然と、「ドイツ騎士団がドブジン地方をポーランドに返還し、ジェマイチヤの領有権を放棄し、なおかつ、今回の戦争準備にかかった費用を補償してくれるならば和平に応じる」というとんでもない条件を出して、この欺瞞に満ちた調停を一蹴した。なお、ここで、1382年まではハンガリー王がポーランド王を兼ねていたことを想起するべきだろう(「余談84:クレヴァの決議」参照)。
    (*12)シフィエチェ($015Awiecie)は先に説明したビドゴシュチの北東約45kmに位置し、ビドゴシュチより下流にあり、当時、そこはドイツ騎士団領であった。
    (*13)このとき小規模の守備隊がシフィエチェに残された。
    (2020年9月 記)
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