リトアニア史余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2019年度, class1955, 消息)
1399年2月、北方からリヴォニア騎士団が突然ジェマイチヤに侵攻してきた。驚いたジェマイチヤの人々が防戦に気を取られている隙に、ヴェルナー将軍率いるプロシャのドイツ騎士団軍が背後からジェマイチヤに襲いかかってきた。ジェマイチヤ全土はあっという間に両騎士団軍による略奪と破壊の惨禍に飲み込まれてしまった。
$00A0$00A0 現在のリトアニア西部の地域はジェマイチヤと呼ばれているが、1398年秋に締結された「サリーナス条約」によってジェマイチヤはドイツ騎士団領となった(*1)。これをうけて、その翌年、プロシャのドイツ騎士団は彼らの支部である北方のリヴォニア騎士団(*2)と連携してジェマイチヤの併合に乗り出したのだ。
$00A0$00A0 そして、その年の夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンが大軍を率いてジェマイチヤに進駐してきた。彼らはその夏の1か月間各地を襲って収穫直前の畑を焼き払ったが、その蛮行はドイツ騎士団が連れてきたプロシャの原住民、すなわち、西バルト族のプロシャ人兵士によって為されたのだった。彼らを現場で指揮していたのもドイツ騎士団に征服されたプロシャ人部族の有力者の中から抜擢されて騎士の爵位を与えられたプロシャ人エリートであった(*3)。窮したジェマイチヤの人々はヴィタウタスに助けを求めたが何の支援も得られなかった。このとき、ヴィタウタスはキプチャク汗国のタタール軍と戦うためにキエフの彼方にいたのだ(*4)。
$00A0$00A0 1400年の冬、ヴィタウタスはヴェルナー将軍率いるドイツ騎士団軍とともにジェマイチヤに現れた。その中にはラインラント北部のゲルデルン(*5)やロレーヌの諸侯も軍を率いて加わっていた。彼らは凍結した河川や湿地地帯を通ってジェマイチヤの中心部に進駐した。ドイツ騎士団の大軍の中にヴィタウタスを見つけたジェマイチヤの人々は戦うのをやめ、ヴィタウタスに臣従を誓って和平を申し入れたがヴィタウタスはそれを聞き入れず、事のすべてをドイツ騎士団軍の総司令官ヴェルナーに取り次いだ(*6)。
$00A0$00A0 ヴィタウタスに見捨てられたジェマイチヤの人々は一斉にドイツ騎士団軍に投降した。そして、それまで決して屈服することのなかった誇り高きジェマイチヤ人貴族たちの多くは人質としてプロシャに送られ、ジェマイチヤは統率者を失った。
$00A0$00A0 ヴィタウタスに見捨てられたジェマイチヤの人々は一斉にドイツ騎士団軍に投降した。そして、それまで決して屈服することのなかった誇り高きジェマイチヤ人貴族たちの多くは人質としてプロシャに送られ、ジェマイチヤは統率者を失った。
$00A0$00A0 こうして、14世紀が終って新しい世紀が始まろうとするとき、ジェマイチヤのキリスト教化とドイツ化が始まった。それは西欧世界最後の異教徒の地ジェマイチヤに対する十字軍活動の終りでもあった。1400年夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンは騎士でもなく聖職者でもない俗人を起用してジェマイチヤの統治を任せた(*7)。そして、ニェムナス河畔に築かれた城フリーデブルク(*8)がジェマイチヤ統治の拠点となった。
〔蛇足〕
(*1)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*2)「余談51:サウレの戦い」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団は服従したバルト族の有力者の中から有望な若者をキリスト教徒にして教育し、布教活動の先兵とした。また、新たなバルト族平定作戦の戦力にもしていた。その結果、ドイツ騎士団と戦っているバルト族は、彼らを同胞の裏切り者として憎悪し、悲惨な同士討ちになることも多かった。たとえば、「余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」参照。
(*4)「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*5)ゲルデルン(Geldern)はエッセン(Essen)の西北西約50kmに位置するオランダとの国境に近いドイツの小都市である。
(*6)ヴィタウタスのこの時の行動は、この軍団の最高責任者はヴェルナー将軍であって自分ではないことを示し、「サリーナス条約」の取り決めを守ってドイツ騎士団に忠実に従っていることをアピールしたのだと言われている。しかし、それだけではなかったようだ。ジェマイチヤをドイツ騎士団に譲渡した代わりに、リヴォニア騎士団を抑えてノヴゴロドを支配下に置くことを認めさせ、それによって得られる交易上の利益を狙ったヴィタウタスは、リヴォニア騎士団、すなわち、ドイツ騎士団との関係悪化を避けたかったのだ。しかし、その一方で、ヴィタウタスは密かにジェマイチヤの人々に暫く耐え忍ぶよう諭していたという。彼は機を見てジェマイチヤを取り戻す魂胆だったのだろう。
(*7)表面上はドイツ騎士団に服従していた誇り高き頑固なジェマイチヤ人たちが、そのまま静かにその運命をうけ入れことなど考えられなかったから、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはそれを考慮して、性急に洗礼を強制する宣教師や強面の徴税人をジェマイチヤに送り込むことをせず、敢えて俗人に統治を任せて先ず経済を発展させ、それによって一般人の中から新たな商人や小貴族階級が育成されれば、そうした新興階級が自らキリスト教徒となって社会の安定勢力になるだろうと考えた。この点に関してはヴィタウタスも同様の考えであったようだ。即ち、既にキリスト教徒(カトリック)となっていたヴィタウタスは、ジェマイチヤ人をカトリックに改宗させることに異存はなかったが、ジェマイチヤがドイツ騎士団によって統治されることは容認できなかったのだ。
(*8)フリーデブルク(Fiedeburg)は、文字通り「平和の城」として、ジェマイチヤ統治の政治的拠点(役所)としての機能だけでなく、交易センターとして地域の経済的発展を促す重要な役割を担っていた。この城は「サリーナス条約」が結ばれたあと、ドイツ騎士団がカウナス西方のニェムナス河畔に築いた2つの城のひとつで、ドゥビサ川がニェムナス川に合流する河口付近、すなわち、カウナスの北西約37km付近に築かれていた。一方、もうひとつの城はネヴェジス川がニェムナス川に注ぐ河口付近かその少し下流にあった川中島の城ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)を再建したものと思われる。ネヴェジス川は「サリーナス条約」によってドイツ騎士団領とされたジェマイチヤ地域の境界をなしていて、この川の河口地域はリトアニア領になっていたから(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)、この城はドイツ騎士団にとって国境を守る最前線の基地となった。
(番外)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲン(Konrad von Jungingen:在位1393年~1407年)は前任者の急死によって選出された総長(Hochmeister)で、経験の浅い未知数の指導者として登場するのだが、深謀遠慮の人物であった(「余談92:ドイツ騎士団のヴィルニュス包囲」の蛇足(5)参照)。それは、ここで見た彼のジェマイチヤ統治の方針からも納得できるのだが、彼のジェマイチヤ政策は、積極的な布教とジェマイチヤ人の早期改宗を望む身内の聖職者たちからは理解されず、不評であったという。
(2020年1月 記)
(*1)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*2)「余談51:サウレの戦い」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団は服従したバルト族の有力者の中から有望な若者をキリスト教徒にして教育し、布教活動の先兵とした。また、新たなバルト族平定作戦の戦力にもしていた。その結果、ドイツ騎士団と戦っているバルト族は、彼らを同胞の裏切り者として憎悪し、悲惨な同士討ちになることも多かった。たとえば、「余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」参照。
(*4)「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*5)ゲルデルン(Geldern)はエッセン(Essen)の西北西約50kmに位置するオランダとの国境に近いドイツの小都市である。
(*6)ヴィタウタスのこの時の行動は、この軍団の最高責任者はヴェルナー将軍であって自分ではないことを示し、「サリーナス条約」の取り決めを守ってドイツ騎士団に忠実に従っていることをアピールしたのだと言われている。しかし、それだけではなかったようだ。ジェマイチヤをドイツ騎士団に譲渡した代わりに、リヴォニア騎士団を抑えてノヴゴロドを支配下に置くことを認めさせ、それによって得られる交易上の利益を狙ったヴィタウタスは、リヴォニア騎士団、すなわち、ドイツ騎士団との関係悪化を避けたかったのだ。しかし、その一方で、ヴィタウタスは密かにジェマイチヤの人々に暫く耐え忍ぶよう諭していたという。彼は機を見てジェマイチヤを取り戻す魂胆だったのだろう。
(*7)表面上はドイツ騎士団に服従していた誇り高き頑固なジェマイチヤ人たちが、そのまま静かにその運命をうけ入れことなど考えられなかったから、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはそれを考慮して、性急に洗礼を強制する宣教師や強面の徴税人をジェマイチヤに送り込むことをせず、敢えて俗人に統治を任せて先ず経済を発展させ、それによって一般人の中から新たな商人や小貴族階級が育成されれば、そうした新興階級が自らキリスト教徒となって社会の安定勢力になるだろうと考えた。この点に関してはヴィタウタスも同様の考えであったようだ。即ち、既にキリスト教徒(カトリック)となっていたヴィタウタスは、ジェマイチヤ人をカトリックに改宗させることに異存はなかったが、ジェマイチヤがドイツ騎士団によって統治されることは容認できなかったのだ。
(*8)フリーデブルク(Fiedeburg)は、文字通り「平和の城」として、ジェマイチヤ統治の政治的拠点(役所)としての機能だけでなく、交易センターとして地域の経済的発展を促す重要な役割を担っていた。この城は「サリーナス条約」が結ばれたあと、ドイツ騎士団がカウナス西方のニェムナス河畔に築いた2つの城のひとつで、ドゥビサ川がニェムナス川に合流する河口付近、すなわち、カウナスの北西約37km付近に築かれていた。一方、もうひとつの城はネヴェジス川がニェムナス川に注ぐ河口付近かその少し下流にあった川中島の城ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)を再建したものと思われる。ネヴェジス川は「サリーナス条約」によってドイツ騎士団領とされたジェマイチヤ地域の境界をなしていて、この川の河口地域はリトアニア領になっていたから(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)、この城はドイツ騎士団にとって国境を守る最前線の基地となった。
(番外)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲン(Konrad von Jungingen:在位1393年~1407年)は前任者の急死によって選出された総長(Hochmeister)で、経験の浅い未知数の指導者として登場するのだが、深謀遠慮の人物であった(「余談92:ドイツ騎士団のヴィルニュス包囲」の蛇足(5)参照)。それは、ここで見た彼のジェマイチヤ統治の方針からも納得できるのだが、彼のジェマイチヤ政策は、積極的な布教とジェマイチヤ人の早期改宗を望む身内の聖職者たちからは理解されず、不評であったという。
(2020年1月 記)
2020年1月16日 記>級会消息