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  • リトアニア史余談92:ドイツ騎士団のヴィルニュス包囲/武田充司@クラス1955

     1393年1月、ヴィルニュスの南西150kmほどに位置するリトアニア南部の要衝ガルディナス(*1)がドイツ騎士団の大軍に襲われた。彼らの中には西欧から雇われた大勢の騎士たちもいた(*2)。

    $00A0$00A0 激しい攻防は3日間つづいたが、リトアニア軍は夥しい犠牲者を出して降伏した。これは、その前年にヴィタウタスの再度の裏切りによって煮え湯を飲まされたドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ヴァレンローデによる報復の始まりであった(*3)。
    $00A0$00A0 この状況を憂慮したポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスはローマ教皇特使に仲裁を依頼し、ドイツ騎士団との和平を模索した。その結果、その年の夏、トルンにおいてようやく交渉が始まったが、その直後にドイツ騎士団総長が亡くなった(*4)。
    $00A0$00A0 後任の新総長として選出されたコンラート・フォン・ユンギンゲン(*5)はリトアニアの首都を攻略してリトアニアとポーランドの連携による脅威を根本から取り除こうと決意した。しかし、ドイツ騎士団の本拠地から遠く離れたヴィルニュスの完全制圧が容易でないことは過去の経験からも分っていたから、綿密な計画を立て周到な準備をした(*6)。
    $00A0$00A0 翌年(1394年)1月、ドイツ騎士団の大軍はニェムナス川を遡ってカウナスに向った。しかし、カウナスを制圧するとヴィルニュスには向かわず、ニェムナス川を遡ってメルキネを襲い、そこから東進してナウガルドゥカスに達した(*7)。これに対して、ヴィタウタスはニェムナス川を遡ってくる騎士団軍をカウナスの遥か手前で迎え撃とうとしたのだが、まんまと欺かれて敵の主力に遭遇することができず、ニェムナス川下流に取り残されてしまった。結局、このときはヴィルニュスを襲うことなくドイツ騎士団は引き揚げていった。
    $00A0$00A0 ところが、この年(1394年)の夏、騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはさらに大規模な遠征軍を率いてカウナス郊外に現れ(*8)、リッタースヴェルダーの城の再建を始めた(*9)。敵の動きを察知したヴィタウタスはリッタースヴェルダーを急襲したが、彼らを排除することはできなかった。しかし、ここでドイツ騎士団はリッタースヴェルダーに拠点を構築するのを諦め、直ちにヴィルニュスに向った(*10)。
      8月29日、ヴィルニュスの城に向って騎士団軍の砲撃が開始された。このとき、ヴィタウタスはヴィルニュス郊外で騎士団軍を迎え撃って敗れ、城内にもどることができなかった。やむなく、ヴィタウタスは周辺地域で兵力を集め、ヴィルニュスを包囲している敵軍の背後に迫ったが、これも反撃にあって再び敗走の憂き目をみた(*11)。ヴィルニュスの周囲は完全にドイツ騎士団に支配され城は孤立した(*12)。ところが、ある日、城内から抜け出した奇襲部隊がドイツ騎士団野営地の食料倉庫などを焼き払うこと成功したため、ついにドイツ騎士団は包囲をといて撤退して行った(*13)。
    〔蛇足〕
    (*1)ガルディナス(Gardinas)は現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)。
    (*2)このときドイツ騎士団はオランダとフランスから騎士を雇って戦力を補強していた。
    (*3)従兄弟ヨガイラとの抗争でドイツ騎士団に支援を求めておきながらヴィタウタスが最初に彼らを裏切ったのは1384年で(「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照)、2度目が今回のドイツ騎士団の報復攻撃の原因になった1392年の裏切りである(「余談90:ヴィタウタスの妹リムガイラの結婚」の蛇足(6)参照)。
    (*4)会談が始まって10日ほど経ったとき突然ポーランド王ヨガイラが会場を去り会談は中止されたが、しばらくして再開されることになった。ところが、その直前に騎士団総長コンラート・フォン・ヴァレンローデが急死してしまった。そのため、騎士団側は先のガルディナス攻撃の指揮官だったヴェルナー(Werner von Tettingen)が総長代理として会談に臨み、捕虜の交換などが実現したが重要な合意は棚上げされた。なお、トルン(Toru$0144)はポーランドの中部ヴィスワ河畔の都市である。
    (*5)この年の11月に開かれた総会で選出された新総長コンラート・フォン・ユンギンゲン(在位1393年~1407年)は経験の浅い未知数の指導者であったが、決断力と深謀遠慮の人であったと言われている。それは就任直後の彼のヴィルニュス攻略計画からも窺える。
    (*6)新総長コンラートは、ドイツ、フランス、イングランドなどから募った多数の騎士や北の十字軍志願者たちを加えた大軍団を編成した。また、一気にヴィルニュスに迫る短期攻略作戦ではなく、段階的にヴィルニュスの包囲網を構築して攻略しようとした。そこで、後方からの支援ルートを確保して長期戦にも耐えられるよう、武器や食料を集積する拠点基地をカウナスに構築しようとした。
    (*7)メルキネ(Merkin$0117)はカウナスの南方約85kmにあるニェムナス河畔の都市で、ここから南々西へ60kmほど行くとガルディナス(フロドナ)である。ナウガルドゥカス(Naugardukas)は現在のベラルーシの都市ナヴァフルダク(Navahrudak)で、マルキネの南東100km余に位置し、台地の上に築かれた昔からの要衝であったが、このときはリトアニア軍によって事前に焼き払われ廃墟と化していたという。また、ドイツ騎士団の一部はマゾフシェのブーク川流域にまで進撃し、マゾフシェ公ヤヌシュ1世を一時拘束した。
    (*8)このときもドイツやフランスの騎士などが多数参加していたが、その中にはフランスのブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)が送り込んできた150人の砲兵隊も含まれていた。この砲兵隊は当時の百年戦争で大活躍した強力な部隊であった。
    (*9)リッタースヴェルダーについては「余談90:ヴィタウタスの妹リムガイラの結婚」の蛇足(4)参照。
    (*10)ヴィタウタスの襲撃を退けたものの、くり返し奇襲攻撃をうけること必定であったから、ドイツ騎士団はリッタースヴェルダーに中継基地を築く計画を変更して急遽ヴィルニュス攻略に向ったのだが、リトアニア軍の奇襲や待ち伏せ攻撃を避けるため、彼らは密かにネリス川の北側の森の中を通って突然ヴィルニュスの北西に姿を現した。
    (*11)ヴィタウタスはヴィルニュスを出て彼らを迎え撃ったが、甚大な損害を蒙って敗れた。そこで、いったん身を隠して散り散りになった兵力を集め、軍団を再編してヴィルニュスを包囲している敵軍の背後を突いた。
    (*12)ドイツ騎士団は、強力な工兵隊を総動員して現場で多数の木製の攻城塔を造り、ネリス川に2本の橋をかけるなどして、ヴィルニュスの城をあらゆる方法で攻撃した。
    (*13)ドイツ騎士団は長期の包囲戦にも耐えられるように準備してきたのだが、この奇襲によって長期戦を諦め、短期決戦に切り替え、新しい攻城塔の建造と城の周囲の堀の水を抜く土木工事を急いだが、リトアニア軍の執拗な奇襲攻撃によって作業員の犠牲が増えるばかりだったので、ついに撤退を決断したという。こうしてヨーロッパ中世史上最大規模の攻城戦のひとつと言われたドイツ騎士団のヴィルニュス包囲は終った。
    (2019年9月 記)
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