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  • リトアニア史余談90:ヴィタウタスの妹リムガイラの結婚/武田充司@クラス1955

    $00A0 1392年春、カウナス近郊の城リッタースヴェルダーにひとりのポーランド人が密かにヴィタウタスを尋ねてやって来た。その人物はポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォが差し向けた密使ヘンリクであった。

    $00A0$00A0 ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとなったリトアニア大公ヨガイラ(*1)が母国リトアニアの統治をめぐって従兄弟のヴィタウタスを排除したことから内紛となり、ドイツ騎士団がヴィタウタス一家の亡命をうけ入れてヴィタウタスに加担したため事態は紛糾し、ヨガイラを悩ませていた(*2)。ポーランドの貴族たちも、リトアニアでの争いに益々深く巻き込まれてポーランドの国益まで損ないかねない婿殿ヨガイラに不満と不安を募らせていた。形勢不利と悟ったヨガイラは、ついに意を決し、ヴィタウタスと和解して彼をドイツ騎士団から引き離そうとしたのだが、ヨガイラに対して強い不信感と敵意をもっているヴィタウタスを説得することができるのか、いや、それ以前に、ドイツ騎士団の中で厳しく監視されているヴィタウタスにどうやって接触するのかが問題だった。
    $00A0$00A0 そこで、この大役を果たす密使として選ばれたのがプオツク(*3)の司教ヘンリクであった。ヘンリクはプオツクの司教という肩書によってドイツ騎士団の厳しい監視の目を欺くことができたのか、とにかく、リッタースヴェルダー(*4)でヴィタウタスに会うことができた。彼は首尾よくヨガイラの意向に沿ってヴィタウタスを説得することに成功した。それどころか、ヴィタウタスはヘンリクを気に入ったようだった。そこで、ヘンリクはドイツ騎士団の疑惑の目を逸らすためか、ヴィタウタスの妹リムガイラに結婚を申し込んだのだ(*5)。そして、それから間もなく、彼はリムガイラと結婚式を挙げ、リムガイラを連れてポーランドに帰っていった。
     ヘンリクの型破りの活躍によってヴィタウタスとヨガイラの和解が成り、これ以後、彼らは生涯互いに協力してドイツ騎士団と戦うことになるのだが(*6)、ヘンリクはそれから1年も経たぬうちに突然亡くなった(*7)。そして、この奇妙な結婚によってドイツ騎士団の人質から解放されたリムガイラは寡婦となり、1419年にモルドヴァのアレクサンドル1世善良公と再婚した。しかし、それから2年も経たぬうちに彼女は離婚した(*8)。
     ところで、ヘンリクはピアスト朝マゾフシェ系一族のシェモヴィト3世の末子であるが、数奇な星の下に生れ、不孝な子供時代を過ごした。しかし、成人した彼は並外れて強靭な肉体と優れた外交的能力に恵まれ、とてもプオツクの司教というような聖職者の地位に安住できるような人物ではなかった(*9)。シェークスピアのロマンチックな喜劇「冬物語」は、このヘンリクの数奇な生涯をヒントにして作られたと言われている。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。
    (*2)「余談87:同君連合下のリトアニア」参照。
    (*3)プウォツク(P$0142ock)は、現在のポーランドのほぼ中央、ワルシャワの西北西約100kmに位置するヴィスワ河畔の都市で、1075年にはマゾフシェ(Mazowsze)地方の司教座が置かれ、そのあと12世紀前半にかけて半世紀余に亘ってポーランドの首都であった。
    (*4)リッタースヴェルダー(Ritterswerder)は、現在のカウナス(Kaunas)市の西端、ニェムナス川の北側にあるランペジャイ(Lamp$0117d$017Eiai)地区あたりに、当時あったニェムナス川の「川中島」に築かれていた木造の城で、文字通り「騎士(Ritter)の川中島(Werder)の城」であった。ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ヴァレンローデ(Konrad von Wallenrode:在位1391年8月~1393年7月23日没)は、前年の夏に前総長が実施して果たせなかったヴィルニュス攻略を目論んで、1391年夏、臣従したヴィタウタスを従えてカウナスまで来たが、ヴィルニュス攻略を中止してプロシャに帰った。このとき、リッタースヴェルダーの城を整備してヴィタウタスに与え、ドイツ騎士団の前線基地のひとつとした。
    (*5)このとき二十代前半のヘンリク(Henryk)はリムガイラ(Rymgaila)に一目惚れしたのかも知れない。それがドイツ騎士団の疑惑の目を逸らすという策略にもなったということか。なにしろ、ヘンリクは規格外の人物だったらしいから・・・。それは置くとして、司教であるヘンリクの妻帯は、ポーランドやリトアニアが偽物のキリスト教国であることを示すものとして、ドイツ騎士団に攻撃の口実を与えたようだ。
    (*6)実際、このあと暫くして、ヴィタウタスが巧みにドイツ騎士団を欺きながら蜂起してヨガイラとアストラヴァスで会い、のちに「アストラヴァス条約」と呼ばれる秘密条約を結んだ。そして、この条約によってヴィタウタスはリトアニア大公となり、リトアニアのヴィタウタス時代が実現する。
    (*7)ヘンリクの突然の死は様々な憶測を生んだ。
    (*8)モルドヴァはポーランドやリトアニアの黒海への出口に位置し、当時は両国にとって支配下に置きたい重要な国であった。アレクサンドル1世善良公(Alexandru Ⅰ cel Bun:在位1400年~1432年)はモルドヴァ公国の繁栄と安定を実現した人物で、ブルガリア正教会によって広められたスラヴ語典礼を使う東方正教会の一員として、ポーランドの支配下にあったガリチア府主教座から独立してモルドヴァ府主教座を開設し、カトリックの国ポーランドの支配に抗した。それとは別に、当時のモルドヴァはオスマン勢力の脅威に曝されていた。ヴィタウタスが妹リムガイラをここに嫁がせたのも、モルドヴァを間接的に支配したかったからであろう。
    (*9)ヘンリク(Henryk)はポーランド語名で、英語ならヘンリーである。彼はシェモヴィト3世(Siemowit Ⅲ)と2度目の妻アンアとの間に生まれた子だが、シェモヴィト3世はアンナが身ごもったとき、彼女が不倫をしていたと思い込み、彼女を投獄した。彼女がヘンリクを生むと、シェモヴィト3世は部下に命じて彼女を絞殺させ、赤子のヘンリクは農夫のもとに預けられた。その後、シェモヴィト3世と最初の妻エウフェミアとの間に生まれた娘マウゴジャタ(Ma$0142gorzata)が異母弟ヘンリクの境遇に心を痛め、ヘンリクを農夫から引き取って養育した。ヘンリクが10歳になった頃、彼女はヘンリクが父シェモヴィト3世によく似ていることに気づき、これがきっかけとなってシェモヴィト3世もヘンリクを実子として認めた。しかし、領地の配分と相続はヘンリク抜きで既に決まっていたからシェモヴィト3世はヘンリクを聖職者にすることにし、先ずプオツクの小教区を彼に与えたが、その後、もっと大きな教区をヘンリクに与えようと努力した。その甲斐あってか、シェモヴィト3世没後にヘンリクはプオツクの司教になった。しかし、ヘンリクは聖職者になりたくなかったから、正式の叙階を拒否して俗界で才能を発揮する機会の訪れを待った。
    (2019年7月 記)
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