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  • リトアニア史余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り/武田充司@クラス1955

    $00A0$00A0 ヴィタウタスのひとり娘ソフィアは、1391年1月、モスクワのヴァシリイ1世のもとへ嫁入りした。このときソフィアは二十歳、それ以来1453年に亡くなるまでの実に60年余にわたる長い間、彼女はモスクワ公家のために生きた。

    $00A0$00A0 その間、彼女は五男四女に恵まれたが(*1)、不運にも、1425年に夫ヴァシリイ1世(在位1389年~1425年)が亡くなったときには、年長の4人の息子は既になく、末だ10歳になるかならぬかの末子ヴァシリイ2世が唯一の世継ぎとして残っていた。それ以来、この幼い君主の叔父や従兄弟たちとの公位継承をめぐる熾烈な争いに明け暮れるなかで、摂政として我が子と苦難を分け合ったが、彼女が亡くなった年に、ようやく内紛を脱してヴァシリイ2世の治世は安定に向かった(*2)。
    $00A0$00A0 彼女がモスクワに輿入れしたときには、ヴィタウタスと彼の一族は人質としてドイツ騎士団の監視下にあったが、前年の夏、騎士団総長が亡くなり、次期総長の選出に手間取っていたため騎士団総長の座は空位であった。そこで、ヴィタウタスは次期総長と目される実力者コンラート・フォン・ヴァレンローデを説得し、彼の支援をえて娘をモスクワに送り出したのだった(*3)。一行はダンツィヒ(現在のグダンスク)の港からリガを経由してモスクワに行った。このとき、ヴィタウタスの名代としてソフィアを護衛してモスクワに行ったのはヴィタウタス一家とともに人質となっていた重臣イヴァン・オルシャンスキであった(*4)。
    $00A0$00A0 ところで、話は1380年の「クリコヴォの戦い」まで遡るが(*5)、この戦いで勝利したモスクワ公ドミートリイ・ドンスコイは、それから僅か2年後の1382年にキプチャク汗国の汗トクタミシュの襲撃をうけ、モスクワが灰燼に帰した(*6)。トクタミシュに屈したドミートリイ・ドンスコイは貢税納入のため長男ヴァシリイ1世を特使としてサライに差し向けたが、ヴァシリイ1世は人質としてトクタミシュの宮廷に拘束されてしまった(*7)。
    $00A0$00A0 1386年、ヨガイラがポーランド王となった年だが、ヴァシリイ1世は何とかサライの宮廷から抜け出し、リトアニアのヴィタウタスのもとに逃げ込んだ。ヴィタウタスはヴァシリイ1世を匿ってモスクワに送り届けたのだが、このとき、同い年(1371年生まれ)のヴァシリイ1世とソフィアが知り合ったようだ。その後、これが政略結婚としての縁組に発展した。
    $00A0$00A0 ソフィアがモスクワに嫁いだことによってヴィタウタスはモスクワ公ヴァシリイ1世の岳父となり、大きな影響力を発揮した。また、ヴァシリイ1世没後は幼い孫ヴァシリイ2世の後見人となってモスクワに睨みをきかせたヴィタウタスは、リトアニアとモスクワの両公国を支配する実力者となったが、そのわずか5年後に亡くなった。
    〔蛇足〕
    (*1)はじめから話が脱線するが、彼女の4人の娘の中で長女のアンナは、1414年、のちにビザンツ皇帝となるヨハネス8世パライオロゴス(皇帝在位1425年~1448年)に嫁いだが、夫君が皇帝となる前の1417年夏、当時コンスタンチノープルで流行った黒死病に罹って24歳の若さで亡くなった。しかし、これは、やがて第3のローマを目指すモスクワの将来を暗示しているようで興味深い。もしアンナが黒死病で死ななければ、ヴィタウタスの孫娘がビザンツ帝国末期の皇帝の后になっていたかも知れない。
    (*2)ヴァシリイ2世(在位1425年~1462年)を認めず、公位を要求して反乱を起したのは叔父のガリチ・ズヴェニゴロド公ユーリイ(1374年生~1434年没)であったが、ユーリイが死んだあとも彼の息子たち(従って、ヴァシリイ2世の従兄弟たち)が父の遺志を継いで公位を主張して争った。最初は、ユーリイの長男ヴァシリイ・コソイのみが争って、次男のドミートリイ・シェミャーカと三男のドミートリイ・クラスノイはヴァシリイ2世の側についたが、のちにドミートリイ・シェミャーカが反抗して最後まで戦った。この間、ヴァシリイ2世はヴァシリイ・コソイを捕らえ、1436年、眼つぶしの刑を科しているが、そのあと、1446年にはドミートリイ・シェミャーカがヴァシリイ2世の后マリアと母ソフィアを捕らえて監禁し、ヴァシリイ2世に眼つぶし刑を科している。これがもとで、ヴァシリイ2世は「ヴァシリイ盲目公」と呼ばれるようになった。しかし、結局、ドミートリイ・シェミャーカは亡命先のノヴゴロドでヴァシリイ2世の手の者によって1453年に毒殺され、この28年におよぶ内紛は終息する。そして、この年にソフィアも亡くなった。なお、この年(1453年)にはコンスタンチノープルが陥落し、ビザンツ帝国が消滅した。
    (*3)ドイツ騎士団としては人質が減ることに反対であったはずだが、ヴィタウタスが騎士団総長の空位期間を利用して巧みにコンラート・フォン・ヴァレンローデを説得したのだろう。騎士団としてもポーランドを背後から脅かすために、モスクワとの友好関係を利用したかったのかも知れない。あるいは、1389年にヨガイラが弟のレングヴェニスをノヴゴロド公にしているので、これに対抗する策としてヴィタウタスがモスクワとの関係の重要性を言葉巧みに説いたのかも知れない。とにかく、これでヴィタウタスは大切なひとり娘を人質から解放して将来に備えたのだ。
    (*4)イヴァン・オルシャンスキについては「余談87:同君連合下のリトアニア」の蛇足(9)参照。
    (*5)この当時、キプチャク汗国(the Golden Horde)は東西に分裂して混乱期にあったので、1378年、モスクワは貢税の支払いを停止した。しかし、これに怒った西部地域の実力者ママイ(Mamai)がモスクワに大軍を送ってきたが、「ヴォジャ川の戦い」でモスクワが勝利した。そこで、1380年、ママイ自身がモスクワ懲罰に乗り出したが、「クリコヴォの戦い」で再度敗北し、モスクワ公ドミートリイ・ドンスコイに名をなさしめた。ママイはこの敗北ののち「カルカ川の戦い」でトクタミシュに敗れ、最後はクリミアのカファで殺害された。そして、トクタミシュはキプチャク汗国を再統一して汗になった。
    (*6)この年、トクタミシュはリャザニ公オレグの協力を得てモスクワを急襲した。不意を突かれたドミートリイ・ドンスコイはモスクワの北東約300kmのコストロマに逃げたが、モスクワは包囲された。堅固な守りのモスクワは持ちこたえたのだが、市民が偽計に引っかかって城門を開いたため、モンゴル軍が雪崩を打って城内に突入し、モスクワは灰燼に帰した。
    (*7)2度にわたるママイの武力による恫喝を退けて、いわゆる「タタールのくびき」から脱する第一歩を踏み出したかに見えたモスクワも、結局、トクタミシュに屈して貢税納入を再開せざるを得なかったのだが、モスクワを信用できないトクタミシュがヴァシリイ1世を人質にとったのであろう。
    (番外)イヴァン4世(雷帝)はヴァシリイ2世の曾孫である。
    (2019年6月 記)
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