• 最近の記事

  • Multi-Language

  • 思い出の囲碁/大橋康隆@クラス1955

      NECカップ囲碁トーナメント戦は、囲碁を愛好していたS社長の時代、1981年に創設され、2012年に休止された。私はNECで勤務していた頃

    は、観戦する機会がなく残念であった。ところが、1984年に日本高速通信(株)へ出向して5年目の1989年3月11日に、第8期NECカップ囲碁トーナメント決勝戦に、顧客として招待された。初めて、トッププロの大竹九段と石田九段の決勝戦を観戦して大いに満足した。
      その後の懇親会では、会場の大盤で連碁が行われ、私も籤で第20手目が当たり、白石を大盤に置いた(写真)。連碁が終了して、パーティが始まると、日頃NECとの連絡役をしていた官庁営業のY.N部長とM.N課長の配慮により、日本棋院元理事長の坂田九段、当日優勝した大竹九段、宇宙流で有名な第一期優勝者の武宮九段と共に記念写真の撮影がアレンジされた。 写真:連碁.jpg
    写真:連碁

     

      勿論、喜色満面のS社長とお付きの役員との記念写真も頂いた。武宮九段は囲碁だけでなく話し方も宇宙流である。「大橋さんは何段ですか。」と尋ねられ「2段です。」と答えたら「イヤー、面構えは4段に見えますよ。」と言われた。この言葉に励まされ、定年になってから修行して漸く80才を過ぎて4段に到達できたと思っている。
      S元社長・会長とは、NEC勤務中に一度、日本高速通信勤務中に一度囲碁を打ってもらった。最初は1967年に、S元社長・会長が米国COMSAT衛星通信研究所に部長として単身赴任され、苦労をされていた頃である。部下には、イタリア人のPさん、米国人のGさん(後にベンチャー企業DCCから大発展)など有能な技術者がひしめいていた。COMSATから非直線符号器を受注して、打ち合わせに出張した時である。仕事が終了して、今晩は一緒に食事をしようと言われ、車に乗せてもらった。米国で免許証を取得されたそうで、ブレーキを踏む度に車はショックを受けた。自宅への途中で、夕食の材料を購入し、S元社長・会長が自ら肉料理を用意された。私は、若い母親と暮らしていたので、料理は全く駄目で玉ねぎの皮むきしか役に立たず、本当に申し訳ないと思った。夕食後「君は囲碁を打てるか。何段だ。」と言われたので「2段です。」と答えたら、喜んで碁盤を運んできて「2目置けや。」と言われた。今晩はご馳走になったので、勝ったりしたらいけないと思ったのだが、いざ始まると黒石は切れるところは片っ端から切断され、大乱戦となって形勢判断は全くできなくなった。終わって数えてみたら、僅差で勝ってしまった。この時は、何も言われなかったが、後年、「負けたのではない。2目置かせて鍛えてやったのだ。」と言われた。
      1987年12月11日、日本高速通信に勤務中であったが、NEC伝送OB会が静岡NECで開催された。夕方工場見学後、ホテルで懇親会が行われた。夕食後、S社長が碁盤を取り出して「今日は誰が相手になるか。」と言われた。私より強い先輩方が多くいたが、皆さん敬遠され久しぶりに出席した私にお鉢が回ってきた。「プロの先生に鍛えられて強くなったから、4目置けや。」と言われた。強い相手に対しては堅実に打とうと思ったが、忽ち黒石は切断されて、大乱戦に突入した。観戦者は喜んで声援を送るが、二重、三重のセキができて、最後に実力の差で外壁が破れ、セキ崩れで惨敗した。「大橋、碁は強いだけでは勝てないぞ。人徳がないと上達しないぞ。」と言われ、先輩方が敬遠した理由がよく判った。
      囲碁は、身分や、人種の壁を超越して楽しめるので、近年国際化が著しく進展している。日本でも囲碁を義務教育に取り入れようと言う署名運動があり、私も大賛成で署名した。
    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。