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  • リトアニア史余談53:モンゴルの東欧侵攻とリトアニア/武田充司@クラス1955

     1222年、正体不明の騎馬軍団がイラン方面からカフカス山脈を越えて黒海北岸に現れた。そして、その辺りで暮らす遊牧民族ポロヴェツ人が襲われた。

     驚いたポロヴェツ人の首領コチャンはキエフ・ルーシに助けを求めた(*1)。これがきっかけとなってルーシの諸公は初めてモンゴルの脅威(*2)が迫っていることを知ったのだが、その翌年、「カルカ川の戦い」でルーシ諸公とポロヴェツ人の連合軍はモンゴル軍に大敗した(*3)。
     1227年秋、西夏遠征中にチンギス・ハーンが亡くなると、モンゴルの脅威は暫く遠のいたが、1236年(*4)、バトゥ(*5)率いるモンゴル軍がウラル山脈を越えてヴォルガ川中流地帯に侵攻してきた(*6)。この北方からのモンゴル軍の侵入はルーシ諸公にとって予想外のものであった。そして、この時から1238年春まで各地を転戦したモンゴル軍によって北東ルーシの諸都市は壊滅的な打撃をうけた(*7)。その後、モンゴル軍はノヴゴロドを目指したが春になって湿地地帯が泥濘と化したため途中で引き返して行った。その結果、ノヴゴロドは難を免れた。しかし、1239年、バトゥ率いるモンゴル軍は再び行動を起し、今度は南ロシアを荒しまわり、1240年12月、キエフを落した(*8)。そして、翌年の2月、凍結した河川を渡ってさらに西進したモンゴル軍は東欧に侵入した。
     1241年3月、モンゴル軍の分遣隊がポーランドに侵入し、首都クラクフを焼き払うと(*9)、4月9日には「レグニツァの戦い」でヘンリク2世敬虔王率いるポーランド軍を撃破した。この戦いでヘンリク2世は戦死し(*10)、もはやヨーロッパ大陸にはモンゴル軍の進撃を阻止できる軍隊は存在しないとさえ言われる惨憺たる状態になった(*11)。
     一方、ハンガリーに向かったモンゴル軍の本隊は、1241年4月11日、「サヨ河畔の戦い」でハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリーの大軍を撃破した(*12)。辛うじてモンゴル軍の包囲網を脱したベーラ4世はオーストリアに逃げ込み助けを求めた(*13)。そこで、バトゥ率いるモンゴル軍の本隊は、その夏、オーストリアに侵入してウイーン南方のヴィーナー・ノイシュタットに達したが、ウイーンを落すことはできなかった。
     ところが、1242年春、突然、モンゴル軍は戦いをやめて撤退して行った。それは、大汗オゴディが前年の12月に亡くなったという報せが届いたからであった(*14)。こうして、東欧に吹き荒れた「モンゴルの嵐」は突然止んだ。そしてヨーロッパは救われた。もし、計画通りに彼らがハンガリーの草原地帯に本拠地を置き、軍馬を養ってヨーロッパ大陸の完全征服を目指していたならば、その後のヨーロッパ史はどうなっていただろうか。
     リトアニアにバルト族の国家が出現したのはロシアと東欧がこの「モンゴルの嵐」によって荒廃した直後であった(*15)。これは新興国家リトアニアにとって誠に幸運なことであった。
    〔蛇足〕
    (*1)黒海北岸のドニエストル川下流地域の草原地帯に住む遊牧民族ポロヴェツ人はキエフ・ルーシを悩ます存在であったが、この時ばかりは、ポロヴェツ人は怯えてキエフ・ルーシに助けを求めた。
    (*2)第4回十字軍がコンスタンチノープルを占領してラテン帝国を樹立した1204年から2年後の1206年、モンゴルではテムジンが汗位に就きチンギス・ハーンとなったが、モンゴルの西進はその時から始まった。1222年に現れた正体不明の騎馬軍団とはモンゴル軍の分遣隊(偵察部隊)であった。
    (*3)カルカ川はクリミア半島の北東側に広がるアゾフ海に注ぐ川である。このとき既にモンゴル軍は中央アジアのイスラム諸国を征服し、カスピ海の南からカフカス山脈を越えてロシア南東部を脅かしていた。
    (*4)この年にリトアニアは「サウレの戦い」で帯剣騎士団に大勝している(「余談:サウレの戦い」参照)。
    (*5)バトゥはチンギス・ハーンの早世した長男ジョチの息子(次男)である。
    (*6)当時、ヴォルガ川中流地域はヴォルガ・ブルガール族が支配していた。
    (*7)ヴォルガ川中流地域を襲ったモンゴル軍は、その後、東進して北東ルーシの中心部に侵入し、冬になると凍結した河川を利用して疾風の如く各地を襲い、略奪と殺戮をくり返した。1237年12月21日には5日間の包囲ののちリャザニ(Ryazan)を落とし、明くる1238年2月3日から8日にかけて、ウラジーミル・スーズダリ公国の首都ウラジーミルを包囲炎上させた。歴史上、厳冬期のロシアに攻め込んで勝利したのはこの時のモンゴル軍のみである。
    (*8)このとき逃げ出したキエフ公に代わってキエフ防衛のために奮戦したのがガリチア・ヴォリニア公ダニーロ(「余談:ヴォリニアとの平和条約」参照)であるが、キエフがモンゴル軍によって廃墟と化したことで、分裂して衰退していたキエフ・ルーシは完全にとどめを刺された。
    (*9)このとき、クラクフの中心に聳える聖マリア教会の塔の上から見張りの兵士がモンゴル軍襲来を告げるラッパを吹き鳴らしたが、モンゴル軍の放った矢に倒れ、ラッパの音はそこで途絶えたという。この故事に因んで、現在でも、この塔の上から吹き鳴らされるラッパの音は途中で突然途絶える。
    (*10)ヘンリク2世軍には、主力のポーランド軍のほかにドイツ騎士団とテンプル騎士団の騎士が加わり、さらに各地から集められた歩兵も加わって3万の兵力であった。しかも、ボヘミア王ヴァーツラフ1世の援軍5万も来るはずになっていたが、2万の兵力のモンゴル軍はボヘミアの援軍が合流する前にヘンリク2世軍に決戦を挑み撃破した。レグニッツァ(Legnica)はポーランド西部のシロンスク(シレジア)地方の都市で、この南方約20km地点で戦闘があった。
    (*11)事実、「レグニッツァの戦い」に参加したフランスのテンプル騎士団総長は、フランス王ルイ9世(聖王ルイ:在位1226年~1270年)に対して「もはや我がフランスとモンゴル軍の間には彼らの進撃を阻止できる軍隊は存在しない」と報告しているが、当時の状況からこれは決して誇張ではなかった。
    (*12)サヨ川(Sajo)は、ブダペストの東方を流れるティサ川(Tisza)の支流で、ブダペストの東北東約160km地点で北西方向からティサ川に注ぐ。
    (*13)これに対して、オーストリア大公フリードリヒ2世(喧嘩大公)は、あろうことか、ベーラ4世を捕らえて監禁した。
    (*14)大汗オゴディはチンギス・ハーンの後を継いで1229年に即位し、1241年12月に没したが、1242年春、その訃報とともに欧州遠征のモンゴル軍総司令官バトゥに引き揚げ命令がとどいた。しかし、バトゥは何故かゆっくりと行動し、途中、ヴォルガ川下流に留まって新たな国を造った。これが「ジョチ・ウルス」とか「バトゥ・ウルス」と呼ばれる「キプチャク汗国」で、ここからその後数世紀にわたってロシアを間接支配することになる、いわゆる、「タタールのくびき」が始まる。
    (*15)「余談:ミンダウガスによる統一と国家の形成」参照。
    (2015年11月 記)
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