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  • リトアニア史余談49:戦うリトアニアのバルト族/武田充司@クラス1955

     リトアニアのバルト族が統一国家をつくったのは13世紀中葉であるが、建国前夜ともいうべき13世紀初頭のリトアニア人は非常に活動的で好戦的であった。

     実際、1201年から1236年(*1)までの35年間にリトアニア人は近隣地域に少なくとも40回は侵攻している。そのうちの22回は北方のリヴォニア(現在のラトヴィア)であり(*2)、14回がルーシの地であり、4回がポーランドであった。
     この記録から分かるように、原初のリトアニア公国はリヴォニアに進出したドイツ人との戦いの中から誕生したといってもよい。彼らは1201年にリガに代表団を送ってドイツ人と平和条約を結んでいるが(*3)、その翌年から毎年のように、リトアニアのバルト族がリガのドイツ人を襲っている(*4)。そうした中で、1205年にはリトアニアの大軍がリヴォニアを通過して北のエストニアまで遠征したが、このとき、エストニアからの帰路、待ち伏せしていたドイツ人によってリトアニア軍は壊滅的敗北を喫し、総大将が戦死した(*5)。
     この1205年の事件に対する報復を志したリトアニアのバルト族は結束して大軍団を編成し、1207年12月、凍結したダウガワ川を渡ってリヴォニアに侵攻した。そして、12月24日の夜、ガウヤ河畔のトゥライダ近郊に達したリトアニア軍は、翌朝、クリスマスのミサが行われているトゥライダの教会を襲撃した(*6)。そして、その夜は、殺戮と略奪によって地獄と化したトゥライダを離れ、近郊の村で野営した。翌12月26日の朝、リトアニア軍は略奪した品々を満載し、多数の捕虜を連れて悠然とリトアニアに引き揚げて行った。
     リトアニア軍によるトゥライダ襲撃を知ったリガのアルベルト司教は、直ちに反撃の軍団を組織して帰路についたリトアニア軍を追撃し、彼らがダウガワ川を渡る辺りで待ち伏せした(*7)。しかし、戦上手のリトアニア軍は暫く応戦すると、戦利品や連行してきた捕虜を残して素早く撤退して行った(*8)。
     このあと、1208年にリガのアルベルト司教はリトアニア人のリヴォニア侵攻を助けているリヴォニア南部のバルト族の一派セリア人を服従させるために帯剣騎士団を中核とした大軍をダウガワ川の南方に派遣した(*9)。これがリトアニア人に対する帯剣騎士団の最初の本格的攻勢であったが、その後もリトアニア人のリヴォニア侵攻は続いた(*10)。ところが、1212年から1213年にかけて、リトアニアのデルトゥヴァ公ダンゲルティスが大規模なエストニア遠征を実施した帰路、帯剣騎士団に捕らえられ獄死するという事件が起った(*11)。しかも、この報復に出たリトアニア軍も2度にわたって敗北し、総大将が戦死した(*12)。こうした一連の不幸のあとリトアニアのバルト族の活動は一旦沈静化した。
    〔蛇足〕
    (*1)1236年はリトアニア史上有名な「サウレの戦い」があった年で、この戦いでリトアニアのバルト族は帯剣騎士団(「余談:神権国家の出現とリヴォニアの分割」など参照)に決定的な勝利をおさめ、以後、帯剣騎士団は衰退してドイツ騎士団に併合された。
    (*2)リヴォニア侵攻は主として帯剣騎士団との戦いであるが、リヴォニアからさらに北方のエストニアへの遠征も含まれている。
    (*3)「余談:リガのアルベルト司教」参照。
    (*4)事実、それから1年も経たない1202年の冬、平和条約など結ばなかったかの如く、リトアニアの大軍がリヴォニアに侵攻した。そして、その翌年にも、リトアニア人がゲルツィカのフセヴォロド公(「余談:ゲルツィカのフセヴォロド公」参照)とともにリガを襲っている。さらに、その翌年(1204年)にも、リトアニア人はダウガワ川北岸地域のフィン・ウゴル系部族のリーヴ人と共謀してリガを包囲しようとしたが撃退された。
    (*5)「余談:リガのアルベルト」の蛇足(13)参照。このとき、エストニアから帰路についたリトアニア軍の足取りを監視してドイツ人に通報し、リトアニア軍殲滅作戦に協力したのはリガの南方のダウガワ川南岸に居住していたバルト族の一派であるゼムガレ人であった。彼らは、北上してくるリトアニアのバルト族に悩まされていたからこうした態度に出たようだ。また、このとき戦死したリトアニア軍の総大将はジェヴェルガイティス(Zevelgaitis)であったとされているが、この人物が記録に残っている最初の実在したリトアニア人で、リトアニア北部のウピテ(Upyte)の公であったといわれている。
    (*6)トゥライダ(Turaida)は「余談:神権国家の出現とリヴォニアの分割」の蛇足(7)で述べたようにガウヤ川の西岸にあるから、東南から近づいたリトアニア軍は手前のスィグルダ(Sigulda)地区の帯剣騎士団領を通り抜ける必要があったが、このときには未だセーゲヴォルト城はなかったから、容易にガウヤ川を渡って司教領の教会を奇襲することができたのであろう。この時、教会にはクリスマスの朝のミサのために大勢の人が集まっていたから、この襲撃によるドイツ人や原住民キリスト教徒の犠牲は甚大であった。
    (*7)このとき、アルベルト司教は、反撃の軍隊に参加すれば全ての罪が許されるであろうと呼びかけ、リガ在住の商人やキリスト教徒になった原住民に軍隊への参加を促し、拒む者には3マルクの罰金を科すといって脅かした。
    (*8)こういうときに戦利品などを戦場に放棄すると、敵の兵士たちはそれに目が眩んで戦いどころではなくなるので、容易に撤退できる。このとき、あとに残された捕虜は殆どが原住民の女子供であったが、彼らはリトアニア軍から解放されたことを神に感謝してキリスト教徒になることを強いられた。
    (*9)「余談:リヴォニアのバルト族の運命」参照。
    (*10)たとえば、1210年にはリトアニア人が警備の手薄なコケンフセン(Kokenhusen:「余談:ゲルツィカのフセヴォロド公」の蛇足(7)参照)を急襲しているが、これに触発されてリガ周辺の原住民が蜂起し、西部(海岸地帯)のバルト族であるクルゼメ人の協力を得てリガを包囲するという事件が起っている。しかし、結局、クルゼメ人は夥しい犠牲者を出して鎮圧された。
    (*11)デルトゥヴァ(Deltuva)はリトアニア中心部の高地地方の一部で、この地域の現在の中心都市はウクメルゲ(Ukmerge)である。この時のリトアニア軍の総大将ダンゲルティス(Dangerutis)は、当時のリトアニアのバルト諸部族の中で大きな力を持っていた人物であったようだ。彼は帯剣騎士団のヴェンデン(Wenden:現在のラトヴィアの都市ツエースィス〔Cesis〕)の城の牢獄で1213年に死んだが、自殺といわれている。
    (*12)1213年にリトアニア軍はダウガワ河畔のレンネヴァルデン(Lennewarden:現在のリエルヴァルデ〔Lielvarde〕)を襲撃して報復したが、帯剣騎士団の反撃で指揮官が戦死し、多くの犠牲者を出した。その翌年にはダンゲルティスの弟ステクシィス(Steksys)が報復攻撃を試みたが、彼も帯剣騎士団の罠にはまって殺害された。
    (2015年9月 記)
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