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  • 「命の行進曲」を観て/大橋康隆@クラス1955

     8月17日にYプロジェクト プロデュース 終戦70年特別舞台公演「命の行進曲」(The Last Song)を観劇した。

     太平洋戦争前後の時代を生きた人々の生き様が再現されているが、出演者が多く、物語が複雑なので、プログラムのあらすじを読んで全貌を把握して頂きたい。この夏は連日の猛暑でへばっていたが、観客席は若者、中年、年配者で満席であり、日本もまだ希望が持てると心強くなった。 物語の舞台回し役ともいえる中学校校長石松石蔵役を演じた高橋広司(文学座)さんは、180度世の中が逆転した時代を好演した。あの時代の中学校長先生は、軍国主義を吹き込み、多くの教え子が次々に出征した結果、戦死してゆく運命にたまらぬ思いであったろう。私はテレビや映画で出征兵士が日の丸の旗の波に送られて戦地に赴く場面を見る度に、本人や家族はどのような思いであったか胸が痛んでくる。薄れかけていた私の昔の記憶があれこれ蘇ってきた。
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    プログラム1 プログラム2 写真1:学芸会
     嵐の前の静けさと言うが、太平洋戦争開戦直前の日常は平穏であった。小学2年生の学芸会で、小柄な私が舞台の末席で鉄兜姿で敬礼している古い写真が出てきた。(写真1)翌年12月8日に大本営発表「我が国陸海軍は、本日未明西太平洋に於いて米英と戦闘状態に入れり。」を聞いた。真珠湾攻撃と同時に、銀輪部隊はマレーシアを快進撃してあっという間にシンガポールが陥落した。学芸会では同級生が山下奉文将軍の役をし、「イエスかノーか」と言って机を叩いて敵将に迫り、拍手喝采を浴びた。
     5年生になると戦況は悪化した。「夕涼み 星見て語る アッツ島」という俳句を作って褒められた。担任のN先生は熱血漢で、涙を流しながら大義の光、楠正成の千早城の戦いや桜井の別れを語った。遂に先生は軍属として、ジャワ島に行かれた。校長先生が壮行の辞を述べられた後、私も短い文章を読んだ。戦後、岡山一中の焼跡の整理をしていたら、N先生が小学生を引率して見学に来られ再会した。後年、弘西小学校の同期会があった時、帰郷してN先生のお宅を訪ねたことがある。校長先生と私の壮行の辞を大切に保管しておられたので恐縮した。
     6年生になると担任と級友も入れ替わった。「夕涼み 星見て語る サイパン島」という俳句を級友が作ったら先生に大変褒められた。私はいささか複雑な気持であったが、戦後になると、このようなことは当たり前であることが良く判った。「ガダルカナル島」という映画を観たが、厳しい検閲があったにも拘らず、戦局がただならぬことがひしひしと感じられた。「海ゆかば」の音楽と共に大本営の発表があると、またかと皆が感じるようになった。1945年3月10に東京が大空襲された。
     1945年4月に岡山一中に入学したが、当時は学区制であり、受験勉強をした記憶はない。毎朝、職員室の前の校庭で朝礼があった。右向け右をして、東京の方を向いて宮城遥拝をしてから、軍人勅諭を大声で暗唱した。この様に厳粛な時に、職員室の前の防火用水桶からガマの大きな鳴き声が聞こえてきた。教頭先生の綽名がガマであった。全員くすくす笑いそうになるのを我慢するのに苦労した。翌日級友と早目に学校に行き、石垣の上に座り込んで職員室の前を見下ろしていたら、教頭先生が現れ防火用水桶を覗いておられた。罪なことをした生徒がいるもんだと思ったが、皆笑いをこらえ、鉄拳を喰らった者が一人もいなかったのは、軍国主義が深く浸透していたからだろう。
     中学生になると戦況は深刻さを増し、上級生は水島の工場へ航空機生産のため勤労動員で行っていた。一年生の私達は農繁期に農家へ勤労奉仕に行っていた。水島の工場が爆撃されると、大きな音が山麓の農家に鳴り響き、上級生達がやられている様子を想像して、申し訳ないと思った。勤労奉仕は、戦後も一年以上、戦地の兵隊さん達が復員して帰国するまで継続した。お蔭で、農作業は田植え、棚草取り、稲刈り、麦刈り、すべて体験した。また農家で白米とサクランボを戴き食糧難の時代で大変有難かった。
     1945年6月29日、岡山も空襲され焼野原になった。朝2時過ぎに大音響がして目覚めて雨戸を明けると真っ赤な空であった。「子供は先に逃げろ。」と言われ、防空頭巾を被りリュックを背負って、小学4年生の妹の手を引張り、表通りに出ると避難者が皆旭川に向かって大混雑であった。漸く河原に到着し、北方の山に逃げようとしたが、既に川上に焼夷弾が花火のように投下され、止む無く河原で夜が明けるのを待った。日本軍が打った高射砲の破片が飛んできて、近くにいた老人の片足が根元から吹き飛び、驚愕した。その後老人は破傷風に罹り亡くなったと聞いている。岡山城と石垣の上に建っていた岡山一中は火炎に包まれ朝方焼け落ちた。正に落城であった。昼前に自宅に帰ったが、幸い焼け残っていた。私だけ近くの弘西小学校に行ったが、運動場は火葬場で、3階建ての教室は重傷者で満ち溢れまさに地獄であった。この時初めて戦争を実感した。とても勝てるとは思えなかったが、負けるとも思っておらず不思議な気持であった。8月6日に広島に原子爆弾が投下されたが、大本営発表は「新型爆弾。被害軽微なり。」であった。しかし、口コミで「ピカドン」の威力は我々に詳細に伝わってきた。岡山空襲の時、警戒警報しか出ていなくて被害が増大した理由も、B29は広島に向かっていると軍部は判断していたのである。
     1945年8月15日の昼、私達は焼け跡の運動場に集められ玉音放送を聞いた。ラジオの雑音が多くてよく聞き取れなかったが「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び。」と言うところだけはよく聞こえた。聞き終わると、校長先生は悲憤慷慨されたが、配属将校の陸軍少佐は冷静であった。「不和雷同してはいけない。冷静に行動して、再起を期せ。」と言われた。日頃、鬼軍曹に教練で搾られ、38銃の重さが身に沁みていたが、こんな立派な陸軍少佐が配属されていたことを初めて知った。
     敗戦後は、焼跡の整理作業に駆り出され、その合間は石垣に座って青空教室であった。修身の時間に校長先生が来て、「君達はデモクラシーを知っているか?リバーティーを知っているか?」と聞かれたが、全員ポカンとしていた。空襲の日が最初の英語の試験の日で、前夜「ZOO」を最後に覚えて寝ていたのである。校長先生はその後教育長に就任し、、民主主義の伝道者として岡山名誉市民になられた。最初に進駐軍が来た時は、物陰に隠れて息をひそめて眺めた。そのうちに大丈夫だと判ってきた。石垣の上の焼跡の整理をしていると、米兵3人が石垣に座り、焼け残った月見櫓を水彩で描いていた。おそるおそる近ついて覗きこんだら、チューインガムやチョコレートをくれたので驚いた。
     暫くして、進駐軍の将校が、焼跡の校庭に来て演説をした。通訳は英語のI先生がされたが、一度も外国に行ったことが無いのに堂々たるものだった。一ケ所だけ、不明確な単語を英語で問い返して確認された。私達はすっかり感服した。その後、I先生は1950年に英文毎日懸賞論文に応募され、「日本の新しい道」を提出して一位入賞された。3年生になるとバラックの校舎が建設されたが、翌年の1948年に岡山一中は、先生も生徒もそのまま岡山朝日高校となり、場所だけ旧制第六高等学校の跡地に移転した。1950年、3年生になると分かれていた第二女子高校と合併して、男女共学になった。
     思い出すと際限ないが、「歴史は繰り返す。」という言葉が妙に身に沁みてくる。8月15日は、日本の歴史から永遠に消えることはないだろう。
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