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  • リトアニア史余談46:神権国家の出現とリヴォニアの分割/武田充司@クラス1955

     ラトヴィアの首都リガはダウガワ川がリガ湾に注ぐ河口近くに発達した都市であるが、1201年、この地域の布教を担っていたアルベルト司教がユクスキュル(現在のイクシュキレ)にあった司教座をこの地に移したことがこの都市の始まりである(*1)。

     この地域一帯はリヴォニアと呼ばれフィン・ウゴル系のリーヴ人の土地であったが(*2)、1207年2月、ドイツ王フィリップの宮廷を訪れたアルベルト司教は、リヴォニアを自分の領土とすることを認めてもらった(*3)。これによって、リヴォニアはアルベルト司教を元首とし、リガを首都とする神権国家となった。
     アルベルト司教は1202年に自衛のための軍隊とも言うべき帯剣騎士団を創設し、その軍事力を利用してリーヴ人を平定し、布教の実をあげていた(*4)。しかし、こうなると、帯剣騎士団もその労苦に見合った分け前にあずかるのが当然と考えるようになった。それと同時に、この辺鄙な土地で自立した常備軍として相応の戦力を維持するには、自分たちの領地を持って食糧や物資の自給を目指し、領民から徴収する貢税によって財政を強化する必要もあった。そこで、帯剣騎士団はアルベルト司教に対して、征服したリヴォニアの土地の3分の1を騎士団領とすることを要求したが、そればかりでなく、これから征服して得られるであろう全ての土地の3分の1を騎士団領とする約束を取り付けようとした。これに対して、アルベルト司教も帯剣騎士団の功績を認めその労苦に報いるために、既に征服したリヴォニアの土地の3分の1を帯剣騎士団の領地とすることには同意したが、未だ征服していない土地を分け与えることはできないとして、騎士団の第2の要求は拒否した。しかし、騎士団側はこれを不服として、その後も執拗にこの要求を繰り返した。
     そうこうするうちに、この問題がローマ教皇インノケンティウス3世の知るところとなった。仲裁に入った教皇は、未獲得の土地は神のものであるとして、帯剣騎士団の要求は神を恐れぬ傲慢なものだと断じた。さらに、帯剣騎士団が得たリヴォニアの土地から徴収される「十分の一税」(*5)の4分の1はリガの司教に納めるべきであるとした。これは、帯剣騎士団がリガの司教に従属する組織であることを改めて確認するものであった(*6)。
     教皇のこの裁きによって司教と騎士団の対立はとりあえず解消した。そして、アルベルト司教の命をうけた騎士団側は征服したリヴィニアの土地を3分割した案を作成した。3つの土地の最初のひとつを先ず司教が選んで取り、残った2つの土地の中から騎士団がひとつを選んだ。残りのひとつは司教のものとされた(*7)。こうして、征服されたリヴィニアの土地はリガ司教領と帯剣騎士団領とに分割され、リガ司教を元首とする神権国家とその司教に従属するが完全な自治権をもった騎士団国家が同時に誕生した。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談:リガのアルベルト」参照。
    (*2)「余談:リヴォニアではじまった布教活動」参照。
    (*3)アルベルト司教は前年の秋から翌年(1207年)にかけてドイツに一時帰国し、リヴォニアへの入植者を募っていたが、そのときにフィリップを訪れた。なお、彼がリガを留守にしている間に一旦鎮圧されたはずのリーヴ人による大規模な反乱が起っているが、これが実質的に最後のリーヴ人の組織的抵抗で、1207年には、リガを中心とするダウガワ川中流地域までのリーヴ人はドイツ人の支配下に入った。したがって、この地域は実質的にアルベルト司教の支配権の及ぶ土地といえるが、フィリップが「アルベルトの国家」として認めたのはリヴォニア全土である。すなわち、征服していない土地もアルベルトの支配権が及ぶものとされた。しかし、ここで注意すべきは、ドイツ王フィリップ(在位1198年~1208年)の権威の脆弱さであろう。ドイツ王は神聖ローマ皇帝であるが、兄の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世没後、ハインリヒ6世の息子(のちに異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となる子)が幼かったため、フィリップが後見人となり、ドイツ王(したがって神聖ローマ皇帝)となったが、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立して争っていた。1207年は彼が教皇との争いに勝ち、破門を解かれてやっと戴冠を許された年であるが、その翌年に彼は暗殺されている。したがって、アルベルトのリヴォニア国家は名ばかのものと言えるが、リヴォニアの原住民であるリーヴ人にとってこれほど勝手なキリスト教徒の振る舞いなど許せるわけもなかった。
    (*4)「余談:リガのアルベルト」参照。
    (*5)中世の西欧世界では、教会組織を維持するために、キリスト教徒は自分の所属する司教区に、その年の収穫物の10分の1を税として納めることになっていた。これが「十分の一税」(Tithe)である。帯剣騎士団が自分の領地を欲しがったのも、この「十分の一税」による自前の安定した収入を確保したかったからであるが、無理やりにキリスト教徒にさせられて「十分の一税」を取り立てられるリーヴ人にとっては災難であった(「余談:リヴォニアではじまった布教活動」の蛇足(7)参照)。
    (*6)これは当然のことであったが、リガの司教の指揮下にあるはずの帯剣騎士団が軍事組織として大きくなってくると、現代で言う「文民統制」がきかなくなり、やがて、アルベルト司教と対立するようになる。
    (*7)このときアルベルト司教が最初に選んだ土地は敬虔なキリスト教徒となったリーヴ人長老カウポの砦のあったトゥライダ地区(「余談:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」の蛇足(3)参照)を含むガウヤ川の西側の土地であった。次に、残った2つの中から騎士団側が選んだ土地は、ガウヤ川を挟んでカウポの土地の対岸に広がる地域、すなわち、現在のスィグルダ地区を含む地域であった。そして、最後に残った3分の1の土地はダウガワ川流域北側の地域で、これは自動的に司教領となったが、ここはリトアニアのバルト族と接する国境地帯で防禦に費用のかかる地域であった。実際、アルベルト司教は、このあと暫くして、ダウガワ川北岸に、リガから上流に向って点々と堅固な石造りの城を築いてダウガワ川を強固な防衛線とし、リトアニアのバルト族の攻撃に備えた。一方、リガの北東地域では、ガウヤ川を境界にして西側(リガ湾側)の地域をとったアルベルト司教は、カウポの砦跡に立派な城を築いた。これが現在も観光名所として残っているトゥライダ城のはじまりである。これに対して、対岸のスィグルダ地区には帯剣騎士団が、早速、堅固な石造りの城ゼーゲヴォルト(Segewold)の建設にとりかかり、そこを帯剣騎士団の本部とし、司教座のある首都リガから離れた。ゼーゲヴォルト城は20年の歳月を経て完成したが、その後、度重なる戦火に見舞われ、18世紀初頭に勃発した大北方戦争(1700年~1721年)で完全に破壊され廃墟と化した。
    (2015年7月末 記)
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