倉敷の思い出/大橋康隆@クラス1955
記>級会消息 (2015年度, class1955, 消息)
倉敷は我家のルーツである。本籍地は倉敷市東南部の山の中で、元は岡山県都窪郡であったが、現在は倉敷市に併合されている。
最近は毎年10月に墓参することにしている。倉敷在住の又いとこ達は、既に定年退職して、少しばかりの農業は続けている。私は高校まで岡山で育ったが、小学生の頃から倉敷は屡々訪れている。しかしながら、システマティックに旅行していないので、意外に訪れていない場所がある。
一昨年、墓参の翌日に倉敷市の地図を広げて眺め、有名な阿智神社を訪れていないことを発見した。阿智神社の石段の数は多いので、家内と相談して登りは石段を諦め、倉敷駅前から倉敷中央通りを南下して左折し鶴形公園を経由して、ゆっくり周りの景色を見物しながら裏道から登ることにした。(写真1)は阿智神社の随神門の下にある33段の厄除け石段である。この下には61段の還暦段、88段の米寿段がある。随神門の内側には7段、拝殿に5段、荒神社に3段の石段がある。神社の周囲には様々な建物があるが、(写真2)は絵馬殿と高灯篭である。ここからは昔に比べ様変わりした倉敷市街が一望できた。(写真3)下りは石段に挑戦したが、数回休憩しながら無事に降りた。
疲れ果てて、倉敷川の石橋を渡ると懐かしい大原美術館(写真4)が現れた。隣接するコーヒー店「エルグレコ」で一服してから久し振りに大原美術館を見学した。有名なエルグレコの「受胎告知」は美術館の奥深い所に厳重に展示されていた。私の小学生の頃は、入口近くの高い場所に展示されており、小さい体で見上げたせいか、物凄い迫力を感じた記憶がある。
大原美術館は、倉敷紡績の二代目大原孫三郎社長が、1930年に開館した日本最初の近代西洋美術館である。倉敷市南東部にあった倉敷紡績工場も、現在はアイビースクエアとなりすっかり姿を変えてしまった。大原美術館の対岸には、病弱だった奥様のために建てた有隣荘がある。緑御殿と呼ばれた屋根瓦が美しい。(写真5)
大原美術館を見学してから、倉敷川に沿って南下して倉敷美観地区をゆっくり見物することにした。(写真6)倉敷川を小舟で観光している人達の上部の川岸では、スケッチに熱中しているグループが写っている。
暫く南下すると倉敷観光案内所が現れる。(写真7) その対岸に美観地区でも美しい場所がある。(写真8) よく眺めると石橋の左側で2台の人力車が待機している。最近は修学旅行らしい中学生の団体や、海外からの観光客が増えてきて、昔とは異なる風情が感じられる。更に南下して左折してアイビースクエアを訪れ、昔の倉敷紡績工場の栄華を偲んだ。ここから北上して、再び有隣荘の北にある倉敷物語館を訪れて、倉敷の歴史を探訪してから休息した。(写真9)
最も時代の変化を感じるのは、倉敷がベッドタウンになり、多くの住宅が建設されたことだ。昔は山陽本線の窓から、田圃の中に大きく聳える松の木が見えて、その下に又いとこ達の家がはっきりと判別出来ていた。そのうちに大きな松の木が松食い虫に蝕まれて消えてしまった。やがて田圃が消えて家が林立して、倉敷駅から東西に走る国道429号線のどこから細道に入るのか判り難くなった。小学生の頃は、又いとこ達と家の前の小川で一緒に泳いでいたが、小型車が通れるように細道が拡幅されたので、狭い水路になってしまった。又いとこ達の祖母(私の祖父の妹)は大変なゴッドマザーで、かつ信心深かったので、お盆にお墓参りをした後、トンボを捕って大目玉をもらって閉口した記憶がある。
戦後の食糧難の頃は、岡山から自転車で父と二人で国道429号線を通って倉敷に行き、帰りには小さな米袋を載せて帰っていた。母が妹と上京する時は「上手くいかなかった時はいつでも帰って来いよ。3人分の米俵は何時でも蔵にあるから。」と母のいとこ達は励ましてくれた。
山陽新幹線が開通して便利になったが、大失敗をしたことがある。広島に出張した帰路、「こだま」で「新倉敷駅」に降りたのである。よく地図を調べていなかったので、山陽本線の玉島駅であることを発見して驚いた。山陽本線の倉敷駅までには西阿智駅がある。駅を出てしまったのでタクシーにしたが、頭にきていたせいか、随分長く乗った気がした。タクシーといえば、昔は地元の運転手さんであったので、駕龍寺と言えば、間違いなく到着した。ところが、地元出身でない運転手さんが増えてきて、山麓の判りにくい場所なのでうろうろして2倍位の時間が掛かってしまう。最近は不思議に駕龍寺と言えば直行してくれる。カーナビのお蔭かと思って運転手さんに聞いたらそうではなかった。数年前から若いお坊様が高野山から派遣されHPなどを駆使してPRに努めたようで、将来は名僧になられますよと運転手さんが教えて下さった。話上手なので意気投合して、お墓まで車に乗せてもらい読経をしてもらっている。小学生の頃は、山の麓の井戸で腹一杯水を飲んでから登っていたので、隔世の感がある。
2015年6月1日 記>級会消息