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  • リトアニア史余談44:リガのアルベルト/武田充司@クラス1955

     武力に訴えてでもリヴォニアでの布教を成功させようとするアルベルトが、十字軍兵士1500人余を乗せた23艘の大船団を率いてリガ湾に現れたのは、1200年3月のことであった。

     彼は前任者の失敗の轍を踏むまいと(*1)最初から用心深く行動した。リガ湾からダウガワ川を遡ってユクスキュル(現在のイクシュキレ)(*2)に上陸したアルベルトは、先ずリーヴ人と平和条約を結んで彼らから攻撃される危険を取り除くと、その年の夏、ダウガワ川の河口に近いところまで下って、そこを自分たちの定住地とした(*3)。
     暫くすると、アルベルトはリーヴ人の長老たちを招いて盛大な宴会を開いたが、その席で突然長老たち全員を捕えて脅迫し、臣従を誓わせた(*4)。こうしてまんまと原住民の協力を得たアルベルトは自分たちの定住地に聖堂を建て、宿舎を整備し、翌年の1201年、ユクスキュルの司教座をここに移した(*5)。アルベルトのこうした策略が功を奏したのか、この年にはリヴォニア西部に住むクルゼメ人(*6)やリトアニアのバルト族の代表団が相次いでリガを訪れ、アルベルトと平和条約を結んだ(*7)。しかし、用心深いアルベルトは、その翌年(1202年)、防衛と布教の援護をする軍事組織「帯剣騎士団」をつくった(*8)。
     アルベルトの心配が的中したかのように、帯剣騎士団が創設された翌年の夏、ダウガワ川上流の正教徒の国ポロツクの軍団が川を下って、2年前まで司教座のあったユクスキュルを攻撃してきた(*9)。またこの年には、ダウガワ川中流地域に住むバルト族とリトアニアのバルト族が協力してリガに向かって進撃してきたが、いずれも、少数だが装備に勝るドイツ軍によって撃退された(*10)。このあとも、アルベルトがドイツに一時帰国している留守中に(*11)、リトアニアのバルト族がダウガワ川下流地域に侵攻し荒しまわった(*12)。
     1205年にはリトアニアのバルト族の大軍がエストニアに遠征したが、その帰りに待ち伏せしていたドイツ軍に攻撃され、悲惨な敗北を喫するという事件が起った(*13)。そして、この事件のあと、ダウガワ川下流地域のリーヴ人はリガのドイツ人を恐れ、表面的には服従するようになったが、機を見て反乱を起すという態度をとるようになった(*14)。
     リーヴ人の巧妙な裏切り行為のくり返しに業を煮やしたアルベルトは、帯剣騎士団を使って徹底的にリーヴ人を懲らしめることにした。リーヴ人を追い立て、家も畑の作物もすべてを焼き払い、彼らを住む処も食糧もない困窮状態に追いやった(*15)。ところが、「窮鼠猫を噛む」の喩えの如く、1206年、リーヴ人の大規模な反乱が起こり、これにポロツクの正教徒が加勢したためリヴォニアは大混乱となったが、結局、これも鎮圧された(*16)。こうして、1207年を境にリヴォニアのリーヴ人は衰退しはじめ(*17)、代わって、彼らの土地にドイツ人が住み着いた。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談:リヴォニアではじまった布教活動」参照。
    (*2)「余談:東西キリスト教の出会うところ」の蛇足(8)参照。
    (*3)そこには、当時、北ドイツのハンザ同盟都市リューベックの商人たちが仮設の交易中継基地を置いていた。現在のラトヴィアの首都リガはここから発展したものである。
    (*4)この宴会は初めからアルベルトが仕組んだ謀略であった。彼は宴たけなわになると会場を封鎖し、彼ら全員を捕らえて軟禁した。長老たちはドイツに送られることを恐れて人質として30人のリーヴ人の若者を差し出すことに同意した。アルベルトはこれによって労働力を確保し、新たな居住地の建設を急いだ。
    (*5)2001年にリガ市は盛大な800年記念祭を催したが、これはアルベルト司教が司教座を1201年にここに移したことから数えたものである。こうしたことから、アルベルト司教は「リガのアルベルト」と呼ばれている。
    (*6)クルゼメ人は、リトアニアではクルシャイ(Kursiai:クルシェア人)と呼ばれているバルト族の一派で、ラトヴィア南西部のバルト海に面したクルゼメ(Kurzeme)地方に住んでいた。ドイツ人はこの地域をクールラント(Kurland)と呼んでいた。
    (*7)しかし、彼らも強かで、平和条約締結などは方便で、本当の目的は相手の様子を偵察することであった。
    (*8)ドイツから連れてきた十字軍兵士や騎士たちは約束の期限がくれば帰国してしまうので、アルベルトにとっては日常的な防衛を担う常備軍が必要であった。帯剣騎士団(Schwertbr$00FCderorden)は剣友騎士団とも訳される。
    (*9)ポロツクはルーシの正教徒圏の西端に位置していたから、リガからダウガワ川を遡ってルーシの地に向かうドイツ人カトリック教徒と衝突するのは必然であった。
    (*10)この当時、リトアニアのバルト族は未だ統一国家をつくっていなかったが、リヴォニアに進出したドイツ人に対しては積極的に攻撃を仕掛けていた。このときも、ドイツ人に協力する原住民やドイツ人聖職者を拉致して引き揚げて行った。
    (*11)絶え間ない異教徒の攻撃に不安を感じたアルベルトは、1204年、軍事力強化のためにドイツに行き新たな十字軍希望者を募っていた。
    (*12)このとき、フィン・ウゴル系のリーヴ人もリトアニアのバルト族と一緒になってドイツ人を攻撃していた。
    (*13)このとき、リトアニア人はエストニアに向う途中でリガに立ち寄ったが、ドイツ人は彼らを丁重にもてなした。しかし、リトアニア人がリガの様子を探るために立ち寄ったと判断したドイツ人は、必ず近いうちに彼らが攻撃してくると思い、先手を取ったのだった。この待ち伏せ攻撃でリトアニア軍は総大将が戦死し、捕虜として連れてきた多数のエストニア人も殺され、壊滅的な敗北を喫した。
    (*14)リーヴ人はドイツ人に服従して洗礼をうけ、キリスト教徒になったふりをしていたが、ドイツ人が去ってしまうとダウガワ川に入って洗礼の水を洗い流し、再び本来のリーヴ人に戻って反撃の機会を窺うようになった。
    (*15)リーヴ人は攻撃されると森の中に逃げ込んで生き延び、ドイツ人が去ると姿を現したが、ドイツ人の焦土作戦によって生きる術を失った。
    (*16)このとき、リヴォニア全土のリーヴ人が立ち上がり、ポロツクにも使者を送って支援を要請した。しかし、アルベルトもポロツクと接触していた。互いの諜報活動の結果、両陣営の騙し合いによる激しい戦争となり、一旦は装備に勝るドイツ人側が勝利したが、生き延びるために降伏して見せかけのキリスト教徒となったリーヴ人は、再びポロツク公を説得して今度こそリヴォニアから全てのドイツ人を追い出そうと大規模な反撃に出た。このときにはリガも危険に曝されたが、最後はドイツ人が勝利し、ポロツク公も手を引いたため万事休した。
    (*17)現在では、ラトヴィアのクルゼメ地方北部のバルト海沿岸に、ごく少数のリーヴ人の末裔が残るのみとなった。
    (2015年5月 記)
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