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  • 退職記念講演:第一種電気通信事業&ケーブルテレビ/大橋康隆@クラス1955

    4.第1種電気通信事業
    4.1 電話番からスタート

      昭和59年11月2日、R.M常務に呼ばれ「断られては困る。日本高速通信に行って欲しい。」と言われたが、常務は直ぐ海外出張であった。11月9日K会長室に呼ばれ内示を受けたが、「日本高速通信がどうなるか私にも判らない。君ならノイローゼの心配も無いだろう。君は一言多いから注意するように。」と有難いアドバイスを戴いた。11月14日朝一番にS社長から辞令を戴き「直ちに着換えて株主総会へ出席するように。」とご指示があった。「株主総会は初めてです。」と申し上げたら、心配しなくとも拍手に至るまで書いてある。」と笑われた。その日の晩には会社設立の披露パーティーがホテルオオクラであり、役員は入口で挨拶していたが、T元首相がみえて握手をされた。初めて別世界に来たことを実感した。
      昭和59年中は役員のみであり、東京駅前の永楽ビルの5階を二部屋借用一部屋は応接室でもう一部屋が役員室であった。私の席は建設省技監、首都高速道路公団理事長を歴任されたM.K社長の正面で、電話番もすることになった。日本高速通信は探偵会社ですかと言う電話もあったが、NTT世田谷電話局の火災があり、様々な所から電話が掛かってきたのには参った。当時、NTTの民営化以前でY.K専務は着任されておらず、電話の対応に慣れているのは私だけだった。翌年1月には60名の出向者を集め組織すべく多忙な毎日だった。M.K社長がNTTのY.K副総裁、K.Y総務理事、K.M総務理事をよく知っておられるので驚いたが、道路局長時代に道路横断の認可をNTTの施設局長にだしておられたのである。
    4.2 第一種電気通信事業へ
      昭和59年12月24日、漸く出向者が集まり始めたので虎の門の17森ビルに引越し仕事が軌道に乗ってきた。昭和60年3月にはNTTからY.K専務が着任された。交換・データ通信が専門で、ざっくばらんで歯切れの良い決断を下されるので気持ち良く仕事ができた。私が6年も勤められたのはY.K専務のお蔭と思っているが、他の役員から羨ましがられた。
      昭和60年3月の株主総会で定款を変更し第一種電気通信事業に進出することになった。(写真1)全員逆立ちして事業申請書を作成し4月1日に間に合わせた。この時は市外のみならず市内もサービス出来るような申請をしたが、郵政省の指導で市外のみに限定され残念である。
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    写真1:TWJ
      添付する地図が大量なので、当社は先手で準備したが、地方にまで買いに行った会社もある。COMSATプロポーザルの教訓を生かして、立派な表紙と厚みのある事業申請書を作成したお蔭で、郵政省に提出した時の様子が、当社のみテレビで放映され他社は口惜しがった。ワープロを打った書記のH.U(現在H.I)さんも頭に血が上って、光ファイバを光フィーバと間違えたという逸話もある。
      この頃はマスコミも取材が多かった。ある日、M.K社長の所へ岡山の山陽新聞社から取材に来た。当社にも岡山出身の役員がいると言われたので私の所にもやってきた。光通信の話等したところ、「技術の高さを証明」という見出しで、「ふるさとへマイレター」欄に写真入りで掲載された。本人が知る前に、岡山弘西小学校の5年生の担任であったT.N先生から電話があり驚いた。妹の所にも友人からお兄さんの写真が出ていると電話があったそうだ。家族の名前と年齢も出たので、母は生きている間に新聞に名前が出たと喜んでいた。
    4.3 パソコンも持ってないのか
      昭和60年に入ると各社の売り込みが激しかった。当然、パソコンやワープロも様々な機種が持ち込まれた。ある日、M.K社長からパソコンの説明を聞かれたので、NECから出向したT.T部長に日比谷のC&Cプラザを案内してもらったが、大好評だった。T.K社長はご機嫌で「大橋君、君はニューメディアの会社に勤めるようになったのに、パソコンも持ってないのか。」と冷やかされた。早速、PC-9800VMを購入したが、ソフトが判らない。秋葉原に飛んで行き、「馬鹿でも、チョンでも使えるソフトを売ってくれ。」と言ったら「少し高いが旦那にぴったりなのがあります。」と言って9万円の統合ソフト・パピルスを買わされた。成る程高かったがメニュー形式で勉強せずに使えるようになった。一つ使えるようになると後は簡単だった。会社には各社から出向しているプロが大勢いて直ぐに一人前になり、現在も年の割には詳しくなり、最大の収穫であった。その後パソコン・ネットワークを構築するためOA委員会を設置して委員長を務めた。
      この頃、研究所兼務以来親しくなったM.Mさんと時々ゴルフに行き、往復の車の中で歓談したが、自宅に上り込んで続行したこともある。昭和60年12月、筑波研究所の建設に奔走していたM.Mさんが急逝されたが、これからという時であり残念至極である。また、同期のA.Kさんの連絡でK.Fさんの入院を知り見舞いに行ったが無事全快された。以来、渋谷で時々会い互いに苦労話を交換した。平成6年4月、K.FさんもNEC商品サービス(株)社長在任中に急逝され残念でならない。
    4.4 電話番号は資産(0070)
      昭和60年6月21日、第一種電気通信事業の許可がおり各社一斉に建設工事と営業活動を開始した。当社は東名高速道路に光ケーブルを敷設するので大変であった。(写真2)不注意な運転者がいないことを祈るのみである。通信機器を設置する局舎の建設は天候に左右される。日頃の信心が足りないことを大いに反省した。局舎の建設では発電機やバッテリーが半分を占めるので、技術開発のアンバランスを痛感した。 写真2 起工式 .jpg(30%).jpg
    写真2:起工式
      一番苦労したのは、高速道路のインターチェンジが郊外にあるため、NTTとの接続点まで距離があり、都市の中心部に駅がある日本テレコムより本質的に不利であったが、技術者は責められた。一方、営業活動は通信事業を知らない人達の集まりで意識の改革に苦労した。各役員も分担して営業部員と各社を訪問した。私もNEC関連、住友グループ、友人関係の各社を訪問したが、多くの先輩、同輩のご厚意に心から感謝している。
      昭和61年11月11日、専用線サービスが東京、名古屋、大阪で開通した時、32Mの画像CODECの試作機をNECと富士通から借用して開通式を三元中継で実況放送した。私は真ん中の名古屋に出張したが東京ではT.T部長が商品でないCODECを生かすのに悪戦苦闘していた。開通直前に動くようになり東京のM.H会長、名古屋のR.S愛知県知事、大阪のY.O市長さんの顔が鮮明に現れ、32Mだから当然であるが、マスコミから画質が良いと好評であった。昭和62年9月4日には電話も開通し、横浜インターチェンジに建設された交換センターで徹夜してNTTと夜中に接続した。
      その後自動的に0070へ繋ぐE-BOXが戦略商品となったが、端末商売は大変であった。そもそも4桁多いと言うことはNTTに比べ1万分の1しか番号資産がないと言う事で、公正競争とは程遠い話である。この事はNTTのH.S社長が来社された時に申し上げた。H.S社長は講演会では「協調と競争」と言っておられたが、実戦では当然競争が先であった。
      営業活動と共に新会社では有能な新人の獲得が重要である。技術者の獲得はY.K専務と手分けして各大学を回った。幸い時流に乗っていたので有能な新人を集め、教育には力を入れた。当時、新人の成長が最大の楽しみであった。Y.K専務が率先して第一種通信事業者主任技術者試験を受験されたので、私も昭和60年12月と昭和61年6月に早稲田大学で受験して伝送・交換と線路の資格を取得した。法規は暗記なので苦労したが、社内教育のため、パソコンでアンチョコを作成したのが記憶力増強に役立った。
      NTTとは市外網では競争していたが、市内網を借りていたのでユーザーであった。トラブルがあると課長さんが説明にみえたが、ある日K.O部長が自らみえたので驚いた。K.O部長はCCITTで副議長を勤めデジタルハイアラーキの世界統一に貢献された一人である。DDIのS.S専務はお客様から競争相手になった。ある朝満員の地下鉄で東洋通信機(株)の役員になられたT.Sさんと出会い、早速Y.K専務と3人で夕方一杯飲むことになった。
    4.5 飯の種(料金コンピュータ)
      通信会社にとって料金コンピュータは飯の種である。NTTでも大型市内交換機で10万加入の時代に、一度に200万加入をやったのでその混乱は大変であった。NECの通信業システム事業部にはA.Y事業部長をはじめ多くの方々にお世話になった。ソフトの技術者が大勢料金センタで徹夜をされた。ネットワーク・マネージメントも同様であった。大規模システムでは人間の知恵の限界をつくづく思い知らされた。その後、入出力に光リンクを使用するようになってコンピュータへのアクセス能力が大幅に改善された。昔、Y.M技術本部長の所へ光リンクをPRに行った効果が出てきたのである。
      年末にはS社長が営業幹部と来社された。17森ビルは再開発することになり昭和61年4月から赤坂のアーク・ヒルの36階に移転して大部屋の真ん中にいた。(写真3)「君もお客様だからな。来年もよろしく。ここは眺めがいいな。」と言われたので「眺めはいいのですが場所代が大変です。電話を沢山使って下さい。」とお願いした。$00A0$00A0 写真3 A森ビル.jpg
    写真3:A森ビル
      昭和62年4月、T.T部長と交替してK.K部長が出向してきた。出社初日に事故が発生してその晩名古屋センタに出張してもらった。この会社は出張費も出ないうちに出掛けるのですかとあきれた様だが、赤字会社は厳しいのだということで出張してもらった。オペレーターでは毎日使う料金コンピュータは操作ミスもあるが、それ以外は故障しないのが当たり前という意識である。
    4.6 資本の論理(延伸問題)
      電話開通後は西へネットワークを拡大することが急務であった。北海道から九州まで早く全国制覇した会社が勝ちだというのが私の信念であった。トラフィックから見て次は西であった。福岡まで延伸すべく段取りをとり、昭和62年5月、M.K社長、A.S取締役と共に広島に出張し日本道路公団と詳細打ち合わせをした。広島の局長は前取締役のM.Kさんであった。これでいよいよと思ったが、経営会議でM.H会長の承認が得られなかった。「小さく生んで大きく育てるのが経営だ。君達には経営が判って
    ない。」と言われるのである。自動車のような単体売りは後発でも力があれば勝つことも可能だが、時間のかかるシステムやネットワークは先手必勝である。お客様には全国何処にでも電話がかかるから使ってもらえるのである。その後何度か説得を試みて、ようやく延伸再開が決定した時は既に競争他社がお客様を獲得しており、チャンスを逃し苦しい戦いになった。
      日本高速通信は設立時、290社の出資により資本金が49億円であった。建設省、日本道路公団、トヨタ、三井、三菱、住友がコア・グループとなり役員を派遣していた。トヨタはM.H会長だけであり、当初は我々の意見も快く採用して下さった。ところが最初の滑り出しが順調であったため、熱心の余りトヨタ系の役員を急速に増員された。私は住友グループから来たのでトヨタと同じ10%と理解していたが、資本の論理で1%のNECと見なされるようになった。
      ある時、「昨日S社長に会ったが、社会に貢献する会社だと言っておられた。NECは儲けなくてよいのか。変わったお方だね。」と言われ役員一同ギョッとして私の方を向いた。「S社長は変わったお方であるからこそ社長になられたのであります。」とお答えしたら、さすがのM.H会長も苦笑いされて一同ほっとした。
    4.7 日本移動通信(IDO)
      昭和60年の秋、移動通信の新会社を設立するための検討が進められた。会社の名称も当初自動車電話となっていたが、将来の発展を考え移動通信にするよう進言して採用された。現在の携帯電話の普及をみると良かったと思う。
      方式の統一のためDDIと7回の打ち合わせをして議事録を作成した。当社はM.K社長の社印を戴いたが、DDIはM社長のイモ判であった。このまま郵政省に提出すると言ったら待ってくれと言われた。折角打ち合わせで取り決めても、夜中にモトローラから指令があると翌朝は決定事項が覆される。自主性が保てない会社の苦労も理解できたが、日本は外圧に弱かった。M社長もご心労が多く、急逝されて通信事業民営化の犠牲者となられた。
      昭和62年3月9日、日本移動通信(株)が設立されNECからY.Mさんが出向された。ある日、Y.K専務と共にNEC横浜事業所のT.M支配人を訪れ工場見学をした。当時は未だ自動車電話の時代で苦労をされていたが、その後携帯電話の普及で様相が一変した。
      平成元年4月、(財)電波システム開発センタ主催で東大のM.H教授が団長、東京電力のK.I常務と私が副団長で海外電波利用システム調査団が欧州5ケ国に派遣された。日本高速通信(株)在任中、唯一の海外出張であったが、私にとっても最後の欧州出張となった。
    4.8 自惚れてはいけない
      昭和63年1月21日の朝、書記さんがお茶を持って来た時、「今日は風邪でも引いたのか頭が少しチンチンする。」と言ったら「3階にクリニックがあるのでアポ取りましょうか。」と言われたが、会議があるので断った。その直後胃が急に吐き気を催した。従来胃は丈夫であり研究所のM.Mさんが急逝された時の状況が頭に閃き頭であることを直観した。直ちにクリニックに連れて行ってもらい医師に説明し始めたら気が遠くなった。幸いD先生は国鉄中央病院の院長OBで神経内科が専門であった。救急車で新宿の病院に運ばれ2週間入院した。最初の夜は不安定で、夜中に何度も生死の確認のため懐中電灯で瞳孔検査をされた。初めの5日間は一過性虚血性脳発作のショックで不完全腸閉塞となり苦しんだ。初めて入院して、現代の病院は検査、検査であることを知った。看護婦さんから「若いつもりでも年並みにあらゆる所が老化しています。」と注意された。1+1から66÷11まで毎日チェックされた。
      退院する時「大分脳細胞が死んだので馬鹿になったでしょうか。」と尋ねたら「自惚れてはいけない。ゲーテの様な天才でも脳味噌の1/10しか使っていない。スペア・パーツが沢山ある。直に血管と神経が伸びて昔通りになる。丈夫な人間は不注意なので死に易いが、君はこれで性根が入ったので案外長生きするかも知れない。」と諭された。私の入院はNECの年輩者にショックを与えたらしい。先輩方から屡々電話があり、半分あの世に行った時の感想を聞かれたが、今死んだら困るという以外何もなかったとお答えした。
      退院して数日後、まだ自宅で寝ていたが、会社から明朝新聞を見てショックを受けないようにと電話があった。翌朝の新聞にはYa.K専務自殺の報道が載っていた。次期社長と期待されていた建設省出身のYa.K専務の死は我々の運命を暗示していた。
      平成元年6月、住友銀行からN.H社長が二代目として迎えられた。就任演説は立派であった。「法王に仕えず神に仕えよ。」という最後の言葉に社員一同感激して一縷の希望を持った。M.H会長を説得して延伸計画が再開されたが時既に遅しであった。半年もするとトーン・ダウンし、遂に私も希有な体験をさせてもらった日本高速通信を去る日が来た。(写真4) 写真4 送別会.jpg
    写真4:送別会
    5.ケーブルテレビ(NECケーブルメディア)
    5.1 システム技術(新分配)
      平成2年6月、S社長から、「君の行き先は決まっている。技術を見て欲しい。」と言われ日本ケーブルメディアエンジニアリング(株)で副社長を務めることになった。先ずケーブルテレビ・システムをシステマチックに構築することが必要と考え、H.S部長代理、M.S課長等少人数でシステム技術部を設置した。代表的過去の事例を再検討して、合理的にやればどれ程コスト低減ができるか検討した。従来、ヘッドエンドから順に設計していたので無駄が多かった。そこで逆に、丁度雨が山や丘に降り、それが自然に集まって川になり海に注ぐ原理で設計法を検討した。H.S部長代理はその後S.K部長代理と交替した。この方法は新分配法と呼ばれるようになったが、私は新ではなく、当たり前の分配法だと思っている。
      当時CADも検討したが、デザイン・オートメーション(DA)と混同する人もいた。DAを準備した時は既に時代遅れになってしまう。技術の進歩と共にフレキシブルに対応するにはCADでなければならない。最近CADが導入されているが、あくまでツールであり、主役は人間であることを忘れてはならない。
    5.2 パソコンの活用(OA委員会)
      当社に来てパソコンを有効活用すれば更に仕事の質が向上すると痛感した。先ずトップの理解を深めるため、S.T社長の部屋に導入し、半年後に私の部屋にも導入してPRに努めた。若い人達にはパソコンに詳しい人もいたのでOA委員会を設置して初代委員長を務めた。現在はH.I取締役が委員長で、M.M課長以下のスタッフの努力により、ネットワークの構築や教育が普及して、遂に1人1台が実現され感無量である。日々の仕事にどの様に活用するか各人が具体的に考えて実行する事を切望する。
    5.3 4冊の本(ケーブルテレビ電話)
      CATV基盤技術研究所の報告書を読んで、そろそろデジタルを始める時期だと予感した。平成4年Ha.K社長が就任し、NECケーブルメディア(株)に社名変更された。いよいよケーブルテレビ電話を開発することになったが、平成5年3月、A.Y技術本部長が「若い人達がデジタルは判らないと言って仕事が進まない。」と訴えた。
      早速、私は若い人を八重洲ブック・センターに連れて行き、「やさしいデジタル伝送」「ディジタルPBX導入実戦ガイド」「移動通信」「ISDN」の4冊を購入し、「これを読んで判らぬ所は聞きに来ること。」と申し渡した。結局、誰も聞きに来なかったが、開発は軌道に乗り、平成7年4月、無事長野県波田町でサービスインの運びとなった。(写真5)新しい事を進めるには手荒なことも必要である。 写真5  納入祝賀会.jpg
    写真5:納入祝賀会
      平成7年7月私が顧問になってから、月刊誌CS&ケーブルテレビに第一線技術者のリレーで、「ケーブルテレビ技術者のためのデジタル伝送技術入門」を19回にわたり連載した。最近単行本に纏めて刊行されたが、H.I取締役技術本部長、K.O開発設計部長以下、執筆した各技術者の日頃の研鑽に敬意を表したい。
      PS:平成9年6月18日に退職記念講演を行った。随分昔の話である。ブログであるため人名はイニシャルに変更した。また集合写真は自分の部分のみトリミングしたり、薫陶を受けた方々の写真を掲載できず残念である。終りに当たり改めて感謝の気持ちで一杯です。
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