ブログ立ち上げの頃/大曲恒雄@クラス1955
記>級会消息 (2015年度, class1955, 消息)
ちょうど7年前になるが、2008年の4月か5月に同窓会事務局から「クラスブログを立ち上げませんか」というお誘いがかかってきた。
趣旨はクラス仲間だけでなく、他のクラス、他の学年のOBも含む謂わばタテ・ヨコの関係も含めたコミュニケーションの活発化を同窓会として図りたいということのようであった。
それまでこの種のことについては全く関心が無かったが、どんな心境の変化があったのかよく覚えていないものの何となく興味をそそられて「やってみるか」という気になった。とは言っても“ブログのブの字”くらいしか知らない状態で、どこから手を付けて良いのかサッパリ判らない。取り敢えず、ヨドバシカメラに行って関係のありそうな手引き書を2~3種仕入れて読んでみた。「判ったような判らないような」というのが実感であった。
先行してスタートしているクラスブログが幾つかあったので覗いてみたが何れも掲示板のような感じ。クラス会の予告、報告などが主体で正直な所あまり面白いとは思わなかった。小生には、遅れてスタートするからには特色のあるものにしたいという考えが最初からあった。イメージとしてはいわば「ダベリの場」のようなもので、メンバーに自由に投稿してもらいそれにメンバー(或いは外部の人)がコメントを書き込むスタイルで、「ダベリ」/議論がどんどん発展してコミュニケーションの輪が広がっていくように持って行ければ最高だなと考えていた。
平行して“同志(?)”を募ろうと思い立ち、当時55年会の幹事会メンバーであった新井、太田、高橋の3人に呼びかけてみた。結果、高橋兄だけが積極的で、しかも彼はホームページ作成の経験を持っていたので、彼と組んで“1955クラスブログプロジェクト”を立ち上げることとした。
とは言いながら、肝心のメンバー諸兄の意向が全然判らない。そこで、アンケート調査を実施することとした(2008/6/6)。対象はメールで連絡可能な1955クラス仲間で、対象者は27~28名だったと思う。質問の主な内容は
(1)クラスブログを作ることについての賛否、意見
(2)投稿の意志があるかどうか
結果は23名から回答があり、(1)については回答者全員が賛成、(2)については条件付きを含めて「投稿する」が21名であり、予想以上に皆さんが積極的であることが判って大いに意を強くした次第である。
(1)クラスブログを作ることについての賛否、意見
(2)投稿の意志があるかどうか
結果は23名から回答があり、(1)については回答者全員が賛成、(2)については条件付きを含めて「投稿する」が21名であり、予想以上に皆さんが積極的であることが判って大いに意を強くした次第である。
ブログをスタートするに当たっての小生の基本構想は
(1)週に1回、月曜日に発行する
(2)3~4件の記事(メンバーからの投稿(タイトル、内容は自由)、クラス1955関連のニュースなど)を掲載する
(3)その他細かいことはスタートしてからその都度考える
というものであった。
(1)週に1回、月曜日に発行する
(2)3~4件の記事(メンバーからの投稿(タイトル、内容は自由)、クラス1955関連のニュースなど)を掲載する
(3)その他細かいことはスタートしてからその都度考える
というものであった。
準備は謂わば2正面作戦で、①ブログという器を作ること、②器に盛る中身を準備することで、これを同時に進める必要があった。
①については同窓会事務局が全面的にバックアップしてくれるとのことだったので、2008/6初めに依頼のメールを送った。直ぐに返事があり、その後調整の結果2008/7/1に本郷の2号館で渡部氏から講習を受けることになり、高橋兄と一緒に出席した。当日は2時間ほどノートPCを使ってブログの基本的な扱い方について講習を受けた(*1)。
(*1)ブログのカテゴリー「立ち上げ準備」参照
①については同窓会事務局が全面的にバックアップしてくれるとのことだったので、2008/6初めに依頼のメールを送った。直ぐに返事があり、その後調整の結果2008/7/1に本郷の2号館で渡部氏から講習を受けることになり、高橋兄と一緒に出席した。当日は2時間ほどノートPCを使ってブログの基本的な扱い方について講習を受けた(*1)。
(*1)ブログのカテゴリー「立ち上げ準備」参照
ただ、この講習では基本的な所をある程度理解できたという程度で、実際にアップロード、編集などの実務を始めてみると判らないことだらけ。そのたびにいろいろ考えては試行錯誤を繰り返すと同時に、渡部さんに質問メールを送り指導を仰いだ。ただ、PCの違い、OSやIEのバージョンの違いなどもあってなかなかすんなりとは行かないケースも幾つかあった。
②については、一応8月/初のブログスタートを目指していたので、多少の余裕を見て2008/7/3に斎藤、武田、西の3氏に第1号の投稿依頼を送っている。その後も週に1回程度投稿依頼を3~4人に送った(希望納期は3週間程度に設定)。皆さん結構まじめに対応してくれ、続々と(?)原稿が集まってきた。
この頃の謂わば準備期間は毎日メールの対応に忙殺された。投稿者との対応、渡部さんとのやりとり、等々で1日10件以上という日も珍しくなかったと記憶している。
この頃の謂わば準備期間は毎日メールの対応に忙殺された。投稿者との対応、渡部さんとのやりとり、等々で1日10件以上という日も珍しくなかったと記憶している。
一応何とか準備が整ったものと判断できたので最初の予定を1週間早めて2008/7/28にスタートすることにした。記念すべき創刊第1号を飾ったのは斎藤さんの「エアトン先生」、武田兄の「歳をとってとってわかったこと」と、小生の挨拶であった。スタート第1週の来訪者数(*2)は計93人、1日当たり13人強、立ち上げ時としてはマアマアかなという感じであった。
(*2)渡部さんによるとSeesaaブログでは重複カウントを認めない(同じ人が1日に複数回アクセスしても来訪者数は1人とカウントされる)方式で、良心的なプロバイダーの標準であるとのことであった。
来訪者数はその後ほぼ順調に伸びて行き、半年後には倍増、1年後には60~70人/日となった。これはクラスの枠を超えて結構広く読まれているということで、当初の狙いであった「ユニークで面白いブログ」という考え方が受け入れられた結果だと思う。
その後、幾つかのシステム変更(月刊化、カテゴリーの細分化、等々)を行ったが、一番有効だったのは渡部さんに無理をお願いして画面を広げ、キイワード検索欄を作ったこと、及びカテゴリーをほぼ作者別に細分化したことだと思っている。その理由は最近のアクセス状況を分析してみた所、非常に古い記事へのアクセスが結構多いことが判ったからである。
将来、高橋編集長もリタイアして定期発行が無くなり、また新規投稿が途絶えたとしてもDocument Bankとしての機能は末永く続くものと期待している。
2015年5月1日 記>級会消息
もう7年?早いですネエ。大曲兄のお誘いにのって、それじゃあ科博でのボランティアの様子を書きましょうかと1号から書かせて頂きました。お陰様でルーシーと仲良くなったり、深夜の博物館を探検したり。書くとなるとウソはいけないからもう一度勉強をし直したりと、このブログは私の老化予防に随分役に立ってくれましたし、意外な方から「見た」とメールを頂いて旧交を温めたり。
何事も器を作るはじめは大変と頭で理解はしているものの、初期の渡部さんのご指導を含めた三人のご苦労は他人事のように、メールで原稿をお送りすれば誤字も誤文章も正しくなって当たり前と思っていました。大曲兄がリタイアされて高橋編集長ひとりの舞台になったときに「こうすればアップロードできるから」と詳細な方法、写真枠の使い方などを伺って、そうか結構面倒だったんだアと。ものを書くことはダンスと同じようにボケ防止にはよい薬。編集長のご苦労に感謝しながら諸兄がもっと活発にこの欄を利用して頂くように願っております。大曲さん、ご苦労さまでした。難聴をお大事に。高橋編集長、今後もどうぞよろしく。
コメント by サイトウ — 2015年5月5日 @ 08:32
この記事を読みながら、2008年7月1日のことを思い返しています。あの日は足が時々けいれんを起こしていて苦労しました。
最近の記事(大橋様、武田様の記事)はご自分で記入作業をしてくれるので、大分手が省けていますが、他の諸兄様、編集長の作業の苦労は気にせずに気軽に投稿をして下さい。お待ちしています。
コメント by 高橋郁雄 — 2015年5月5日 @ 10:14
斎藤さんからのコメントを読んで、書き忘れていたことを思い出したので追記を兼ねてコメントします。
最初に斎藤さんから「エアトン先生」の原稿を頂いた時はエアトン先生の写真がありませんでした。「画竜点睛を欠く」とまでは言わないにしろ何となく物足りなさを感じたので胸像の写真の追加をお願いしました。我々の在学中は確か製図室あたりに飾ってあったと記憶していますが、その後2号館に引っ越したようで斎藤さんにわざわざ本郷まで出かけて頂き、目的の写真を撮ってきて頂きました。おかげで立派な写真入りの第1号記事を掲載することが出来、感謝しています。
それから、計画当初から斎藤さんには常連ライターとして月に1回くらい投稿をお願いしていた所、科学博物館の話題を中心に23回、約2年間にわたって連載して頂きました。
ブログ草創期に、いわば“カンバン記事”を書き続けて頂いたことに改めてお礼申し上げます。
コメント by 大曲 恒雄 — 2015年5月6日 @ 11:53