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  • 退職記念講演:光通信/大橋康隆@クラス1955

    3.1 光はデバイスから

      昭和50年4月から約5年間私は伝送事業部長付としてラインを外れ、直属の部下無しで飛び回った。S.O事業部長に担当業務を5つ程書いて戴いたが、その一つが光通信の開発であった。既に昭和49年3月に光通信の開発が決定され、4月からデバイス開発部のK.T担当が1年間、研究所の量子研のT.U部長、S.S課長、A.U主任の所に社内留学した。7月にデバイス開発部に光グループが結成され、S.N主任、K.D担当が開発を開始した。
      こうして昭和49年12月には光中継器をHa.K課長、T.T担当のグループが完成し、翌年電気通信科学館へ展示用として納入した。昭和50年にはNTT横須賀通研に32M装置を光減衰器や光方向性結合器と共に納入した。8月には光コネクタがN.K主任のグループで試作された。昭和50年12月11日光実験室が完成し、K社長に見学戴いた。「君はお金を使っている時だけ生き生きしている。」とのお言葉で恐縮した。昭和51年になるとNTT横須賀通研で所内光伝送実験が行われた。この頃NTT通研ではS.S室長、富士通(株)ではT.Sさんが責任者でお互いに苦労した。
      昭和53年2月、府中事業所のY.Mコンピュータ技術本部長をデバイス開発部のT.Y部長、S.N課長付と訪ね、光リンクのPRを行った。Y.M本部長がこの商売熱心さを見習えとコンピュータの部長さん達に言って下さった。昭和53年からK.T担当がカリフォルニア大学に留学した。昭和54年3月、ダラスで開催されたINTERECOM’79で私も論文発表をしたが、米国の顧客を訪問後、カリフォルニア大学に立ち寄り新知識を吸収して来た。
    3.2 エスキモーに氷(ビスタ・フロリダ電話会社)
      様々なお客様に光システムをPRして歩いたが、「結構な話だが何処で実用に供されているか。」と何処でも言われた。
      海外では「君、エスキモーに氷を売って歩いているようなものだよ。」と冷やかされた。昭和51年10月には海外伝送のT.M事業部長代理、伝送のM.Mデータ通信開発部長に同行してオーストラリア、マレーシアで光通信の講演をした。(写真1)マレーシアではS.TさんがペルナスNECの副社長をされており客先対応でお世話になった。$00A0 写真1 マレーシア.jpg
    写真1:マレーシア
      ところが、昭和52年2月、伝送のM.Sさん、K.Tさん、無線のT.Yさんの3名が米国の光通信学会で論文発表したが、ディズニーワールド構内のビスタ・フロリダ電話会社で、新しい伝送路として光ファイバーを使いたいとの情報を得た。丁度私はカナダのエドモントン電話会社に出張する寸前だったので、S取締役からNECアメリカは中立だから注意せよとアドバイスを受け飛び立った。
      エドモントンからワシントンに電話して(テレックスはヤバイ)セールス・マネージャーのMさんを呼び出し、フロリダのオルランド空港に向かいビスタ・フロリダ電話会社を訪問して現地調査をした。マンホールの蓋まで開けて水の貯まり具合を調べたのは君が初めてだと言われた。(写真2) 写真2  ビスタ電話会社.jpg
    写真2:ビスタ電話会社
      帰国すると難問が山積していた。社内調整はS.U副社長のご尽力で解決した。次に光ファイバーはSELFOCを使うことにしたが、システムマージンがなく万一に備え予備ファイバーを入れることにした。客先の了解を得るため出張したが、S常務も心配され最終決定の前に電話を入れるよう指示された。漸く話を付け、日本の朝6時にS常務の自宅に電話を入れた。「10時に経営会議をしているからもう一度電話せよ。それまで話をつけておく。」と言われた。最後の難関がNTTの了解であったが、「45MBは32MBにあらず。」という寛大な判断で救われた。
      当初は独走で受注できると思ったが、海外他社の知るところとなり国際入札になった。幸い納期が最優先で、NECの受注が確定した。ディズニーワールドは夏休みになると子供達があふれて工事が出来ないのである。何回かビスタ・フロリダ電話会社に出張したが、その途中、昭和52年10月、INTELECOM’77がアトランタで開催され、K社長がC&Cの基調講演をされた。私も論文発表をしたが、K社長の歴史的な基調講演を聴くことが出来たのは幸運であった。
      機器の製造は順調に進んだが、日本板硝子で製造したSELFOCファイバは難航した。漸く住友電工で23ドラムのケーブルを完成したがスペアは1ドラムであった。工事の監督にH.O課長、T.H担当が出張したが生きて帰れないのではと皆心配した。幸い、運搬中の振動で光ファイバのストレスがとれ損失は少なくなりシステム・マージンが出てきた。工事の終り頃恐ろしいテレックスが入った。1区間ファイバが短いのでスペアを使いたいというのである。紐を入れて測定した筈なので、もう一度測定するよう指示した。前回未完成であったマンホールの位置がズレていることが判明し、1日で移設するよう客先にお願いした。
      昭和53年6月29日、9km離れた電話局間が無事開通した。その晩激しい雷雨があり、PCM回線はダウンしたが光は無事でお客様は大変喜んだ。翌日、ディズニワールド内の湖の船で日米の参加者全員の昼食会をした後、甲板で記念撮影し、帰国後全員に送付して戴いた。後にこのプロジェクトのSEであったK.M担当はビスタ・フロリダ電話会社の美人秘書と結婚することになった。昭和53年7月13日、正式の開通式がとり行われ、海外営業担当のK.K専務とNECアメリカのK.H社長が出席された。
      ビスタ・フロリダ電話会社の45MB光システムは輸出第一号となったが、技師長のHさんがTelephone Engineer & Management(1978.9.1)に光システムの詳細を発表された。表紙にカラー写真が掲載されたので、宣伝効果は大きかった。
    3.3 初めて国内航空に(九州電力、LCV、住金LAN)
      昭和53年3月、初めて九州電力を訪問した時、「初めて国内航空に乗って来ました。」と言って笑われた。海外航空は落ちても不思議でない程乗ったが国内航空は本当に初めてであった。幸い、九州電力の新小倉発電所ー到津制御所6.3kmの32MBシステムが国内最初の実用システムとなった。当時、国内営業は中立を保つため、無線のY.U部長、M.K課長のグループと伝送の私達のグループに対し、電力会社については地域分割で対応された。Y.U部長とはPCMの初期にも社内競争をやらされ苦労した。
      昭和54年4月には、(株)LCVの諏訪―岡谷間4.5kmに光システムを導入したが、ケーブルテレビでは最初であった。岡谷市長さんが商店街に熱心にPRされた。「光で画像がバッチリ。」とのキャッチフレーズがヒットして当初の2倍も加入が増え、(株)LCVの躍進のスタートとなった。
      昭和54年11月には、住友金属和歌山製鉄所で光LANシステムが稼働したが、その後札幌や仙台の地下鉄に導入される先鞭となった。この頃導入された光システムは海外も含め、拙著「光通信の実用技術」(産報出版)に紹介してある。
      昭和55年3月、新日鉄大分工場を訪問して光LANシステムのPRをしたが、オートメーションで溶鉱炉から鉄板コイルが出来るまでの全プロセスを見学させてもらった。これぞ正に男の仕事という感じで圧倒された。夕食会でゴルフ・クラブが話題となり、下手なゴルフをクラブでカバーしていた日頃の研究が認められ、お客様は大変ご機嫌で、大分支店長から感謝された。夕食会にはコンピュータのS.I製造装置事業部長も同席であったが、日頃の雄弁もこの時は出る幕がなく大いに反省したらしい。その後ゴルフを始めたと部下の人達が喜んでいた。
    3.4 空恐ろしい(アルゼンチン)
      アルゼンチンとは縁が深い。最初は昭和43年11月、マル・デル・プラタでCCITTの総会が開催され出席した。ブエノスアイレスで国際空港から国内空港まで富士通のK.Eさんと歩いた。地図を購入したので大丈夫と思ったが、国内空港が一向に現れず何だか周りの様子が変であった。太陽が北から照るのに気付いた時、初めて南半球に来たのだと実感した。
      次は昭和52年8月、S常務にお供して光通信の講演に出張した。海外営業の方々に常務は朝が早いと注意していたが、間に合いそうにないのでたたき起こして、急いで会場に行った。既にS常務は演台に座り込んで待ち構えておられた。「まだ10分前です。」と時間を稼いでいたら、どやどや皆が入って来た。「何でぐずぐずしていたのだ。大橋を見ろ。私が伝送で鍛えたからもうきている。」と一喝された。私は以前から朝は早いので唖然とした。
      講演後S常務のご指示でチリに出向いた。交換のK.Mさん、制御のK.Kさん、中南米部のM.Yさんと同行したが、アゼンダ政権崩壊直後で、ホテルの窓から爆撃で破壊された宮殿が見降ろされ、ホテルの壁には弾痕があった。
      昭和54年1月にはR.M常務にお供してブラジルのサンパウロとリオデジャネイロで光通信の講演をした。この時はCETELに光装置を納入したが、海外伝送のT.H部長付、S.N主任が活躍された。
      様々な努力が実って昭和55年3月アルゼンチン・タンデムを受注した。ブエノスアイレスでデモする時はT.Y部長が出張したが、ジュネーブで開催されたテレコムで展示する光装置の予備機を転用したので背水の陣であった。幸い現地で接続を完了すると直ちに動作したので、通信庁幹部がいたく感激され当初計画より大幅に拡大された。これまで数システムが単位であったが、140MBと34MBで900システムも受注したので大変だった。
      設備投資のため特別起案をした。「もっともらしい説明をしているが、もう買ってしまっているのではないか。」とS専務から助け船を出されたので「それ程悪ではありませんが、本日ご出席の各役員の承認を得られれば、明日入る手筈になっています。」とお答えした。本社の待合室で待機しているとK社長が通られ「わしは空恐ろしいぞ。大丈夫か。」と声を掛けられた。さては納期に遅れたら銃殺してラ・プラタ河に放り込んでやると言われたのがお耳に達したかと緊張した。
      アルゼンチン・タンデムは受注規模も大きく、T.K常務を責任者としてしっかりした全社体制が組織された。色々苦労もあったが、昭和57年6月に無事サービス・インする運びとなり、ブエノスアイレスの電話は銀座並みに良く掛かるようになった。(写真3)
    写真3 出荷祝賀会.jpg
    写真3:出荷記念会
      しかし、アルゼンチンの後1年位はビッグ・プロジェクトが無く、山梨工場にペンペン草が生えると経営会議でしぼられた。2年目にはビスタ・フロリダ電話会社の宣伝効果とアルゼンチンの実績評価により北米初め世界各地から受注があり、設備が不足して先見の明がないとしぼられたが、嬉しい悲鳴であった。
      北米では45MB、90MBその他では34MB、140MBが主力機種であった。昭和56年にはサウジアラビアの石油会社アラムコや、欧州のアイルランドから受注して、新しい地域の開拓に成功した。しかし好事魔多しで大失敗もあった。北米のボストン、ニューヨーク、ワシントンを結ぶノース・イースト・コリドール・プロジェクトを富士通が落札して、非難の集中砲火を浴び最早これまでと観念した。幸い国防上の理由で米国メーカーに受注が決定したので救われた。この時は我ながら悪運の強さに驚いた。
    3.5 Dr.Kao との出会い
      Dr.Kaoは1966年(昭和41年)光ファイバの損失改善は不純物の除去により可能であり、通信に有望であるとの歴史的論文を発表されたので有名である。光ファイバは古くから制作されていたが損失が多かった。それを再検討して低損失化の可能性を推定されたのは、まさに温故知新の典型である。昔の論文や資料を読むと、当時は達成出来なかった夢やアイデアが満載されている。
      私がDr.Kaoと親しく言葉を交わしたのは、昭和52年7月IOOC’77が東京で開催された後、会場が大阪の千里に移った時である。予約されたホテルが手違いで確保されておらず、困っておられたのでお世話して以来親しくなった。昭和54年9月シカゴで開催されたFOC’79ではDr.Kaoの司会で光通信の論文を発表した。昭和55年7月、パリのEFOC’80で論文を発表したが、学会終了後ロンドンに出張する際、偶然にもDr.Kaoと同じ航空機であり隣の席が空いていたので移動して色々お話をした。
      東京の京王プラザホテルで開催されたIOOC’83とGLOBECOM’87にはDr.Kaoも来日され奥様にもお会いする機会を得た。最後にDr.Kaoにお会いしたのは、昭和62年ホテルオオクラでNECのC&C賞を受賞された時であった。
      PS:2009年、Dr.Kaoはノーベル物理学賞を受賞された。
    3. 6 光ケーブル通信開発本部の設置
      昭和55年2月に待望の光ケーブル通信開発本部が設置された。H.M本部長の下で私は本部長代理兼デバイス開発部長を務め、T.Yシステム開発部長、H.Uデバイス部長代理という体制であった。H.M本部長は、NTTの茨城通信研究所所長、研究開発本部副本部長を歴任され、光通信の研究開発を指導された方である。ある日、茨城通信研究所の公開にお供をしたが、守衛さんは勿論であるが、タクシーの運転手さんまで顔見知りであったのには驚いた。
      この頃、オーストラリアからは、P.Tさんが光通信の研修のため参加され、システム開発部のY.H主任とT.Mさんが指導を担当された。
      NTTは早くから光ファイバの研究開発を進めてこられたが、実用化では遅かった。昭和53年唐ケ崎~浜町間21kmで小容量システムの第一次現場試験を行ってから軌道に乗ってきた。当初は0.85μmの短波長のレーザーを使用していたが、光ファイバの損失特性からみて1.3μmの長波長への移行は必然であった。
      研究所で長波長レーザーの研究開発が遅々として進まないので、なけなしの技術研究費を提供するから炉を買って欲しいとM.U取締役にお願いした。「金額よりも、心意気に感じて推進するよ。」と快諾された。その後、半導体事業部の協力を得るため、H.M本部長と共にA.O専務、H.N事業部長にお願いした。この様にして長波長に移行すると伝送距離は一躍伸びて、需要も大躍進した。
      昭和56年6月、私が本部長、T.Y本部長代理、S.M計画部長、M.Sシステム開発部長、H.Uデバイス開発部長、H.O敷設・工事部長となった。この頃受注したサウジのアラムコ・プロジェクトでは、砂漠の中の工事でH.O部長が大変苦労された。昭和58年10月にはシングル・モード・ファイバを使用したF-400M方式の現場試験が、厚木ー武蔵野間80kmで行われた。その結果、北海道から九州まで日本縦貫光ファイバ幹線が昭和61年3月に完成した。
      昭和59年4月、NTTのS.Sさん、富士通のM.Oさんと共に、1.3μm帯光端局中継装置の開発・育成で科学技術長官賞を受賞した。
      授賞式には家内同伴であったが、数日後の晩、H.S計画部長の企画により自宅に近いNEC高津クラブで光ケーブル通信開発本部の人達と祝賀会が行われ私の母も招かれた。母はNECに私も大分貢献しているよとよく笑っていたが、この日花束をもらって一生一度のハイライトであった。今もあの世で喜んでいると思う。(写真4)
    写真4 祝賀会.jpg
    写真4:祝賀会
    3. 7 光デバイスの外販と大月工場
      光デバイスの競争力をつけるには、光デバイスのコスト低減が必須であり、生産量を確保するため外販をせざるを得ない。またシステム受注は波があるので光デバイスの生産量を平衡化するためにも必要であった。デバイス開発部のH.U部長、N.K課長、K.O課長の堤言により、米国カリフォルニアのH.O社長やドイツのA.K社長を訪ねてお願いした。H.O社長は郷里岡山の大先輩であり、昼食後ご機嫌で長船の名刀のお話を一くさり聞かせて戴いた。
      当初光デバイスは、光ケーブル通信開発本部内に制作課を設置してM.M課長のグループで生産していた。この頃玉川地区ソフトボール大会で誰も予想しなかった光ケーブル開発本部が優勝し「O杯」を綬与された。
      規定により制作課の女子社員2名が参加した$00A0が、強力なバッテリーであり疲労気味の男子社員をリードして優勝に導いた。優勝戦のナイターで$00A0私も応援したが、こんな経験は初めてであった。(写真5)$00A0$00A0
      顧みると、私は不在が多く留守番役として活躍した歴代の書記さんに心から感謝したい。
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    写真5
    光開本優勝
      光デバイスの外販が拡大してくると、生産基地が必要になった。昭和58年大月に工場建設の計画があるが、半導体には狭いし水も不足だとの情報を入手した。玉川から近いので新技術の光デバイスには最適であった。早速、H.U部長と共に本社、技術管理部にいた同期のS.Yさんに相談して、T.M企画部長に紹介してもらった。我々が動いたというと反発も大きいので、企画部から伝送に話して欲しいとお願いしたところ快諾された。その後、紆余曲折はあったが、昭和61年6月大月工場が稼働し、H.U部長は初代の工場長になった。私は既に日本高速通信に出ていたが、ある日テレビでK会長とH.U工場長の姿を見たので、早速よかったなと電話を入れた。
      北米では光機器の生産基地を物色していた。各種条件から最も好ましいと思っていたオレゴン工場に決定した直後、日本高速通信に出たため一度も訪れたことがない。
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