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  • リトアニア史余談40:馬を愛したバルト族/武田充司@クラス1955

     バルト族は馬とともに生きた民族である。バルト族と馬との深い関係は考古学的発掘調査から次第に明らかになってきた。

    発掘された美しい装飾馬具の数々が馬とともに生きた彼らの生活と文化を物語っている。世界史上最初の遊牧騎馬民族といわれるスキタイ人は紀元前6世紀から前3世紀頃まで黒海北岸の草原地帯で活躍していたが、バルト族はスキタイ人にも劣らない騎馬民族であった。
     馬はバルト族の戦士たちの忠実な伴侶であった(※1)。彼らは常にその馬に跨って戦場を疾駆していた(※2)。そして、主人が死ぬと、その馬は美しく装飾された馬具を身につけて、立った姿のまま主人とともに埋葬された。バルト族であるリトアニア人は、11世紀から12世紀になっても、馬のための独立した大きな墓地をつくっていた。これは、ヨーロッパの他の国々には見られないことである。
     火葬の習慣がバルト族の間で普及したのは11世紀から12世紀以後といわれているが、この時代になると、馬は主人の遺骸とともに火葬された(※3)。バルト族の伝統的信仰では、死者は馬に乗って天空の霊魂世界に赴くと信じられていた。また、そこから死者の魂が家族のもとに帰ってくるときにも馬が必要であった(※4)。そのため、死者とともに焼かれる馬は非常に大切なもので、最上の馬が選ばれ、死者の身分が高くなればその馬の数も多くなっていた。
     14世紀前半にバルト族の一派であるプロシャ人の習慣を記した西欧人の記録によると、当時のプロシャ人は死者を馬に跨らせた状態で火葬していたという。しかし、リトアニアの歴史の中で最もよく知られている豪華な火葬はアルギルダス大公(※5)の火葬であろう。
     黄金で装飾されたベストをつけ、銀のベルトをしめたアルギルダス大公の亡骸は、宝石のビーズで編まれたガウンで覆われ、選りすぐった18頭の馬とともに、火葬の燃料となる清められたオーク(樫の一種)の薪を積み上げた大きな台の上に乗せられて火葬された。亡き主人とともに火葬されたそれらの馬も武器も、犬も鳥も、すべてが灰となり、その灰は死者の等身大に掘られた穴を満たしたという(※6)。
     〔蛇足〕
    (※1)$00A0バルト族にとって馬とは「乗馬用の馬」(steed)であり、リトアニア語でジルガス(zirgas)というが、これはzergti(大股に歩く=stride)というリトアニア語の動詞と結びついている。
    (※2) 彼らが活躍した地域は、現在のベラルーシ全域からウクライナの西半分、ドニエプル川下流域から黒海北岸の草原地帯にまで及んでいた。実際、14世紀末までには、リトアニア人はキエフを支配下に置き、クリミア半島にまで遠征している。まさに、バルト海から黒海までの広大な地域を迅速に移動していた。この機動力は彼らが馬を愛したことから生まれ、中世の大国リトアニアを築き上げる原動力となっていた。
    (※3) 火葬は森の中の特定の場所などで行われたが、そうした火葬場は古いリトアニア語で「アルカス」(Alkas)と呼ばれ、神聖な場所であった。
    (※4) 昔のバルト族にとって、秋分の日から10月末までの期間は先祖の霊(リトアニア語でヴェレ〔vele〕という:「余談:ピレナイ砦の悲劇」の蛇足(5)参照)と交流する時期で、リトアニア語でヴェリネス(Velines)と呼ばれ、1年のうちで最も重要な休息期間であった。秋の収穫が終ったあと、10月の末になると、人々は秋の収穫物や飲み物(酒類)を先祖の霊に供えて何日も祭礼をして過ごした。このときは、亡くなった近親者の霊だけでなく、遠い先祖の霊も馬に乗ってやってきて、その家の家族とともに過ごす。それは、日本の「お盆」に似ている。こうしたバルト族の伝統的信仰に基づく習慣は15世紀の文献などに記録されているが、キリスト教(カトリック)がリトアニアに浸透してからは、この祭礼は11月1日(万聖節:All Saints’ Day)の前夜に行われるようになった。もし、この時期にリトアニアに滞在する機会があれば、10月30日の夜に大きな墓地に出かけてみるとよい。この夜は、人々が自分の家の墓に行ってキャンドルを灯すので、墓地は無数のキャンドルの光に彩られて幻想的な光景を呈しているのを見ることができる。ただし、11月1日は商店もレストランもすべて閉まっていて、人々は日本の元日のように全く仕事をしないから、観光客にとっても不便であるし、まして、仕事で訪れた人は相手がいないので全くお手上げになるので要注意だ。
    $00A0(※5) アルギルダス(Algirdas:在位1345年~1377年)はゲディミナス大公の息子で、リトアニアを中世東欧世界の大国に発展させた功労者である。ゲディミナス大公については「余談:ヴィルニュス遷都伝説と神官」参照。
    (※6) 火葬の場所は首都ヴィルニュスの北西約25kmにあるマイシャガラ(Maisiagala)近郊の森の中であったといわれていて、2009年以来考古学的な発掘調査が行われているが、未だ場所は特定されていない。
     (2015年3月 記)
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