リトアニア史余談39:バルト族はどこから来たのか/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
現在のリトアニア共和国は人口300万人ほどの小国であるが、その人口の80%を占めるのはバルト語族のひとつであるリトアニア語を母語とするリトアニア人である。したがって、リトアニアは世界で唯一のバルト族(*1)の民族国家である。
現在の世界では、リトアニアのほかにバルト族が居住している主な地域は、リトアニアの隣国であるラトヴィア、ポーランド、ベラルーシなどであるが、その数も居住範囲も限られている(*2)。しかし、かつてバルト族は南はポーランドのヴィスワ川流域から北はラトヴィア南部地域まで、東西にはバルト海沿岸からベラルーシ、ウクライナ北部、ロシア西部を含む広大な地域に居住していた(*3)。
バルト族の起源に関して大きな展望が開けたのは、18世紀にバルト語とサンスクリット(梵語)との対応関係が発見されたことだという(*4)。この2つの印欧語の類似性から、バルト族の故郷は温帯地域の内陸部であろうと推測された(*5)。より具体的には、ヨーロッパ大陸、あるいは、アジア大陸の何処かであるとされた。しかし、そこから先は専門家によって意見が分かれ、黒海北方地域とか中央アジアとか諸説があるようだ。
バルト族以前に北東ヨーロッパに現れたのはフィン・ウゴル語を話すアジア系の人たちで、彼らは紀元前3500年頃にシベリアあたりから西に移動して現在のエストニアとラトヴィア北部地域まで進出してきた(*6)。それから1000年ほど遅れて、紀元前2500年頃から紀元前500年頃にかけて印欧系の民族が西進してきたという。これがバルト族で、彼らは大別して3つのグループから成っていた。ひとつは、現在のラトヴィア南部に入って定住した部族で、第2のグループはラトヴィアの南方地帯から内陸部にかけて定住した部族であった。これが現在のリトアニア人の先祖である。第3のグループは現在のリトアニアのバルト海岸地帯からヴィスワ川下流域までのバルト海東岸沿いの地域に定住した。
しかし、このように西進してきたバルト族の最後尾はモスクワやキエフあたりに留まっていたようだ。その結果、はじめに述べたように、この時代のバルト族は北東ヨーロッパの広い地域にわたって居住していた(*7)。ところが、4世紀後半からほぼ2世紀にわたって起ったゲルマン民族の大移動はスラヴ諸族の居住地域に大きな影響を与えた。その結果、バルト族が居住していたドニエプル川上流地域にスラヴ族が侵入し、バルト族は西方に押しやられた(*8)。その後、7世紀には、さらに南からスラヴ系民族がバルト平原に進出し、バルト族と争うようになった。こうして、リトアニア人の歴史がヨーロッパの文献に現れる13世紀頃までには、北方のフィン・ウゴル系民族とバルト族とスラヴ族という3つの民族の分布がほぼ固まった。
〔蛇足〕(*1) 印欧語族のひとつであるバルト語を母語とするバルト族は大別して東バルト族と西バルト族に分けられ、現在のリトアニア人やラトヴィア南部のバルト族は東バルト族に属し、その特徴は、やや背の高い金髪の白人である。また、ドイツ騎士団によって滅ぼされたプロシャ人は西バルト族である。
(*2) このほかに、海外に移住してコミュニティをつくっているリトアニア系住民、いわゆる、リトアニアン・ディアスポラ(Lithuanian diaspora)が北米やオーストラリアにいるが、それについては、畑中幸子氏の「リトアニア移民とエスニシティ」(中部大学 国際地域研究所
刊 「国際研究 11」 1995年)参照。
(*3) スラヴ族が北上してくる前の4世紀前半頃までは、モスクワ、クルスク、チェルニゴフ、キエフなどもバルト族の居住地域であった。その後も数世紀にわたってバルト族はこれらの地域に留まり、徐々に西方に移動して行った。
(*4) バルト諸語はほとんど消滅してしまったが、リトアニア語は現在でもリトアニア人によって使用されているバルト諸語のひとつで、生きた化石のような言語だといわれている。そして、印欧語族の源流であるサンスクリットとの類似性が指摘されたことによって、リトアニア語は印欧諸語の語源研究に役立っていると聞いた。バルト語の専門家は少ないが、日本におけるリトアニア語研究の第一人者は東京経済大学名誉教授・村田郁夫先生である。
(*5) バルト語には四季を表す単語があることから、バルト族の先祖は温帯地帯に住んでいたと推測され、海(sea)に対応する語が欠けていることから、彼らの故郷は内陸であったのだろうと推測されている。ここで問題にしているバルト語の単語は、バルト語固有の単語であって、彼らが接触した他民族から借用してバルト語に混じった語は除かなければならない。現在のリトアニア語には、もちろん、海(sea)に対応する語(jura〔ユーラ〕)がある。また、リトアニア語の中で教会用語はロシア語からの借用語が多い。これは、中世のリトアニア人が正教徒であるルーシの諸部族と交流した結果である。さらに蛇足を重ねるならば、リトアニア語でペダ(peda)は英語の足(foot)だが、英語の歩行者(pedestrian)やペダル(pedal)を想起させる。また、リトアニア語でドゥウォナ(duona)は英語のパン(bread)だが、英語のdough(パンの生地)やdoughnut(ドーナツ)を連想させる。
(*6) フィン・ウゴル族は紀元前500年頃になるとエストニアからフィンランド湾を渡って現在のフィンランド側に居住地域を広げて行った。その結果、フィンランドの原住民は北極圏に追いやられた。こうしたことから、現在のフィンランド人はアジア系の民族であると誤解されがちだが、最近の研究によると、彼らの75%は西欧から入った人たちの子孫だそうだ。しかし、彼らの言語はフィン・ウゴル語の特徴を色濃く残している。
(*7) バルト族の居住範囲を暗示する興味ある地名がある。それはガリンディア(Galindia)で、現在のポーランド北部、マゾフシェ(マゾヴィア)地方の西隣あたりにこの名の地域があったが、モスクワ近郊にもこの名の地域があったという。リトアニア語でガリンダイ(Galindai)と呼ばれるバルト族の一派が居住していたことからこの地名が残ったようだが、この語は英語の「端」(end)に対応するリトアニア語のガラス(galas)から派生した語なのだ。したがって、これら2つの地名が昔のバルト族の居住地域の西と東の端を示しているらしい。
(*8) モスクワ近郊で発掘された考古学的な遺跡の地層を見ると、最も古い地層にはフィン・ウゴル族のものが、その上の地層にはバルト族のものと思われるものが、そして、最も新しい地層にはスラヴ族のものが見つかっている。したがって、どのような順序でこれらの民族がこの地にやって来たのか凡そ想像できる。なお、バルト族に関する考古学的なデータを踏まえた実証的研究の成果は、マリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)著の「The Balts」(Thames and Hudson 1963年)に詳しい。
(2015年2月末 記)
2015年3月1日 記>級会消息
中世のリトアニアにはリトヴァクと呼ばれる多くのユダヤ人がいました。定説では、大多数は西のドイツ方面から来たユダヤ人となっています。しかし、私は、支配層となったのがドイツ方面の人達であり、南方、東方から来たユダヤ人が圧倒的に多いのではないかと勝手に想像しています。何か知見をお持ちではないでしょうか。お教え願います。
コメント by 甲東 — 2018年3月15日 @ 18:09
リトアニアのユダヤ人について集中的に調べたことはないので、甲東さんの疑問に的確に答えることはできませんが、以下のことは多少参考になるかもしれません。
リトアニアに最初に定住したユダヤ人は14世紀末にキエフ(Kiev)からやって来たと言われています。1388年にヴィタウタス大公がブレスト(Brest:現在はベラルーシ領だが昔はリトアニア領)のユダヤ人コミュニティを保護するために特権を与え、その翌年には、グロドノ(Grodno:これも現在はベラルーシ領だが昔はリトアニア領)のユダヤ人コミュニティにも同様の特権を与えていますが、これらは、ポーランドのボレスワフ公(在位1257年ー1279年)が1264年にヴィェルコポルスカのユダヤ人コミュニティに対して与えた「カリシュの法令」(「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」として知られている)に従ったもので、ヴィタウタス大公のユダヤ人保護は、この「カリシュの法令」よりも100年以上も遅い。
この事実からもわかるように、リトアニアのユダヤ人コミュニティの成立はヨーロッパ各地より遅いのですが、キエフ、ブレスト、グロドノという都市名からも推測されるように、中世の「リトアニア系ユダヤ人」(the Litvaks)は東南からやって来たようです。
コメント by 武田充司 — 2018年3月16日 @ 11:30
ご教示ありがとうございます。
以下余計なことです。
少なくとも9世紀頃から、南仏を拠点とするユダヤ商人(ラダニーヤ)がキエフ・ルーシを主対象に、この地域で活動していたのは確かです。一番金になるのは奴隷です。でも、膨大な数のユダヤ人の説明が成り立ちません。
中世のリトアニアが大国になれたのはユダヤ人のお陰とも想像しています。
コメント by 甲東 — 2018年3月16日 @ 15:11
甲東さんのご指摘に関連しますが、中世のヨーロッパ、特に、キリスト教文明の中心から外れた地域では、ユダヤ人の経済活動が歓迎されと考えられます。
それ故、為政者は、集団で移住してきた彼らに居住地(特区)を用意し、特権を与えて保護したのでしょう。
コメント by 武田充司 — 2018年3月16日 @ 15:55
更なる余談です。
主流派であるカトリック、正教会、プロテスタントとも旧約聖書は大切な物としています。大昔は、旧約聖書を排除しようという一派もいたようですが、消滅。東スラブ人、バルト人にとってはユダヤ教とキリスト教の違いが分からなかったかもしれませんね。最近よく聞くアメリカの福音派は、キリスト教の中ではユダヤ教寄りだそうです。
コメント by 甲東 — 2018年3月16日 @ 17:02
ラトビアの文化と歴史研究会というものを立ち上げてこの3年間、仲間と色々な本を読んだり、有識者の話を伺ったりという活動をしている大成と申します。昨日これらのコラムを拝見して、その内容の豊かさに驚いています。一度ぜひお話しをお伺いできる機会を頂けたら、と思ってお願いを書きました。私たちは東京にいる歴史好きの仲間です。ご興味とご都合が良ければ是非お願いしたく。
コメント by 大成宣行 — 2018年6月28日 @ 16:40
大成宣行 様
ラトヴィアの文化や歴史ことに関心を持たれている方からのコメントを頂き、大変嬉しく感謝しています。また、そちらの皆さんの楽しそうな会合へのお誘い、大変光栄に存じます。
しかし、私は最近体調も芳しくなく、特に、耳が悪くなり、まわりの人の話の内容が十分聞き取れなくなってしまったため、お話し相手に失礼や不愉快な思いをさせることが多く、今では、外の会合に参加することを差し控えております。どうか、悪しからずご了承ください。
ラトヴィアとリトアニアは昔から関係の深い間柄です。皆様の会合が益々発展して行くことを願っています。
コメント by 武田充司 — 2018年6月29日 @ 11:20
武田充司さま、
ご返信ありがとうございます。了解しました。
一点だけ教えてください。武田さまの歴史解釈の元となる資料はどうやって入手されているのでしょうか。ラトビアは入手出来る資料が僅かなので、現地に行って探すしかないのではと考えておりますが、大使館には打診しているところです。
煩わせて申し訳ありません。どうかお身体を大切にして下さい。今後のコラムも楽しみにしております。
コメント by 大成宣行 — 2018年6月29日 @ 14:44
大成宣行 様
素人の趣味でやっていることですので、自己流で、たいして参考にもならない経験談ですが:
(1)すべて公開されている一般的な資料だけに頼っています。そのほとんどは英語の資料です。残念ながら、私が自由に読める外国語は英語だけなので、そういうことになってしまっただけです。
(2)その国の歴史とは関係のない、周辺地域や周辺国の歴史を注意深く読んでいます。また、横糸のような歴史、たとえば、十字軍史、ハンザ同盟史、ロシア正教史、ヴァイキング史、気候変動の歴史、といったようなものも、読むように心がけています。
(3)何時、何処で、誰が、ということに拘って、具体的に突き止めることにしています。そこから、芋弦づる式に次々と関連の史実が調べられるようになることがあります。
@「神は細部に宿る」ということで、些細なことや、正確さに拘って深堀すると意外に新たな発見があるものです。これは私が理系人間だからかも知れませんが。
専門家から見れば、誤解による間違いや、知識不足による間違いなど、多々あると思いますが、
@「あせらず、あきらめず、丁寧に!」を座右の銘として気長にやっています。
これからも、よろしく。
コメント by 武田充司 — 2018年6月30日 @ 11:47
武田さま
大変貴重なアドバイス有難うございます。私たちの研究会のメンバーにも伝えていきたいと思います。現在纏め中のラトビアの歴史の草稿の一部分をお送りさせて頂きたいので武田さま個人のメールアドレスがありましたら私に空メール送って頂けたら嬉しいです。有難うございました。
コメント by 大成宣行 — 2018年7月5日 @ 11:10