気ままな人生(2)/小松凱@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
私も高齢者(超高齢者)になったと思って居るので(偉そうなことを言うようですが)趣味の部分でも後継者を育てて道を譲る気持ちで過ごしています。
例えばダンスですが、昨年後半に、長年、いろんな形で籍を温めていた教室を引退の気持ちでお休みしています。(少し若い男性を育てる意味で、パソコンの先生?の後継者になっている男性を誘って一緒に通っていましたが、一応育ったと感じているので、一本立ちさせる気持ちで・・。)
その代わりに?(時間的自由さと経済性を考えて・・)火曜日の午前中は、近くの?マンション群の団地の集会室で行われているダンスのサークルに参加しています。(パソコンの後継者の男性の車に同乗して・・。)
その団地に住んでいるパソコンの生徒の女性を、その男性のパートナーというか、先生になってもらっています。他の男性、女性にも応援してもらって大変助かっています。そんなことで、私は、リハビリ?を兼ねて余っている女性の相手をしています。
ダンスは、我々高齢者にとって好都合な運動なんだなぁ・・と思います。
1時間は、パートナーを随時変えて音楽に合わせて自由な運動。次の30分は、お菓子とお茶で懇談。その後の30分は、補足の練習など・・。
私には、引退したダンスの先生が、「自分のためにもなるので、教えたい・・」というので、教えて貰っています。(良い生徒だから・・無料で・・・と。有難い話です・・。)
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私とダンスの関係も可なり複雑です。
生まれ育った中国・大連時代は、両親がダンスにのめり込んでいました。戦時中ということもあって、私はアンチダンスの気持ちでした。それが、戦後、九州・大分の山奥、竹田に引揚げて、極貧の生活でしたが、母親は、青年団の人々にダンスを教えて?生活の足しにしていました。
それが、両親に対して、少し柔軟に変わったのかもしれません。(私は重労働や家庭教師の真似事で食べていました。井戸掘り、農作業、毎晩友達の家を回って・・。食べるためには何でもやった・・という想い出です。お蔭で体が丈夫になりました。当時の貧乏が今になって役に立っているのかも・・と今では感謝の気持ちです。)
大学では、実験の合間にダンスの指導がありました。偶々帰省してダンスの話をしたら、母親が喜んで喜んで、別府のアメリカ軍キャンプで一晩明け方まで踊ってくれました。踊らされました。最後は疲れて疲れて無意識で踊ってしまいました。
しかし、お蔭で障壁が破れてしまいました。何事も無意識でやれるようになるのが大切と悟りました。
2015年3月1日 記>級会消息
電気科でダンスが一時はやったことはよく覚えています。私は音痴で諦めていました。母上もダンスをされるとは羨ましい。大連から引揚げられてご苦労されたことはよく判ります。私の叔母一家も北京からの引揚げです。
以前お話ししたことがあると思いますが、私の父は大分県竹田の出身です。弓は4段でしたが、よく横笛を吹いていました。私が、日本高速通信に出向した時、菊池三男社長(元建設省)は竹田の出身で親しみを覚えました。
コメント by 大橋康隆 — 2015年3月1日 @ 19:35