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  • ボスニア・ヘルツェゴヴィナの旅/大橋康隆@クラス1955

     7月6日朝、バスでモスタルのホテルを出発して、クラヴィツェの滝(写真1)を訪れた。

    写真1 滝(99%).jpg 写真2 メジュゴーリエ教会.jpg 写真3 モスタル(99%).jpg
    写真1
    クラヴィツェの滝
    写真2
    メジュゴーリエの教会
    写真3
    モスタル
     バスを降りてから、石段や坂道を下り滝壺を見物したが、壮観であった。次いでバスに乗りカトリック教徒の聖地、メジュゴーリエの教会(写真2)を訪れた。1981年6月21 日に、6人の子供達がマリア様を目撃したとされ、以後多くの巡礼者が訪れている。
     再びモスタルに帰り、市内観光をした。3年前にモスタルを訪れたが、バスの駐車場からスターリ・モスト(古い橋:内戦で1993年に爆破されたが、ユネスコの協力で2004年に復元)に行く途中にある横断歩道の角に位置する家が、現在はビニールに覆われ、改築中であった。内戦中に受けた生々しい弾痕が残っていたが、不幸な思い出は年月と共にリセットされてゆくのであろう。橋を渡り、懐かしい商店街を通り、今回初めて「トルコの家」を訪れ内部を見物した。17世紀に建てられたが、当時の生活道具が展示されている。昼食後の自由時間に、一人だけモスク(コスキ・メフメット・バシナ・ジャミーヤ)へ急行し、4ユーロ支払って展望台に登った。螺旋階段は意外に狭い。中程迄登った時に若いカップルが降りてきた。今更下へ降りる元気も時間もないので、中心部の壁にへばり付いてすれ違った。やっとの思いで展望台に出ると、若い青年2人が手際よくパノラマ写真を撮り終り、そそくさと降りて行った。私も大急ぎでパノラマ写真(写真3)を撮り、降りようとしたら、若い女性4人が息も絶え絶えに大声を出しながら登って来た。私は大急ぎで降りたが、途中で3回も階段に腰を下ろして休息をとり、やっと出口に到着した時、先程の女性達が早くも降りてきた。展望台から眺めると、橋の上に赤い屋根の建物が現れてくる。前回自由時間が不足して逃したチャンスを今回挽回して満足した。

     モスタルからバスに3 時間30分乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに到着した。スナイパー(狙撃兵)通りを経由して、ホテルに向かったが、ボスニア紛争時に世界中のジャーナリストが宿泊したホリデイ・イン(写真4 )を、バスの窓から撮影した。
     7月7日午前中は、サラエボの市内観光をした。先ず、ミリャツカ川に架かるラテン橋(写真5)でバスを下車。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア人青年に狙撃され、第一次世界大戦の発端となった場所である。昔は説明の看板が立っていたが、EU加盟のためか現在は取り除かれており、ラテン橋の手前の角にサラエボ博物館がある。ここから徒歩で北東に進み、旧市街の中心にある水飲み場セビリ(写真6 )があるパシチャルシァ広場に向かった。16世紀に建てられた旧絹取引所(写真7 )ブルサ・ベジスタンは、現在歴史博物館となっているが、オスマントルコの雰囲気に満ちている。

    写真4 ホリデイ・イン(99%).jpg 写真5 ラテン橋(99%).jpg 写真6 水飲み場(99%).jpg
    写真4
    ホリデイ・イン
    写真5
    ラテン橋
    写真6
    水飲み場
    写真7 旧絹取引所(99%).jpg 写真8 ヴィシェグラードの橋(99%).jpg 写真9 ヴィシェグラードの町(99%).jpg
    写真7
    旧絹取引所
    写真8
    ヴィシェグラードの橋
    写真9
    ヴィシェグラードの町

     サラエボで昼食後、バスに乗って2時間でヴィシェグラードに到着した。ドリナ川沿いの町は、ボスニア出身のノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの傑作「ドリナの橋」の舞台で、一躍有名になった。2007年には、ドリナ川に架かるメフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋(写真8 )が世界遺産に登録され、観光地として一段と脚光を浴びるようになった。全長175mの橋には11のアーチがある。ドリナ川両岸の町は大変美しい。(写真9)。ヴィシェ
    グラード観光後、バスに乗って1時間30分、国境を越えてセルビアのズラティボール
    のホテルに到着した。

     ボスニア・ヘルツェゴヴィナは面積約5.1万k㎡(北海道の3/5)、人口約380万人、通貨はマルカ、宗教はイスラム教、セルビア正教、カトリックである。6世紀頃スラブ人が定住開始、14世紀にボスニア王国を確立した。1463年にオスマン・トルコが征服。1878年にオーストリア、ハンガリー帝国支配下の一州となる。1914年、サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、第一次世界大戦の発端となる。1918年、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人王国領となる。第二次世界大戦中は、クロアチア独立国に支配された。1945年、旧ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が誕生して、その一州となる。1992年、独立を問う住民投票が実施されたが、3年半以上も本格的紛争に突入、死者20万人、難民・避難民200万人という悲劇となった。1995年12月デイトン和平合意が成立、翌年日本政府はボスニア国家を承認して、資金、技術協力を行ってきた。2014年5月の集中豪雨に際しては、被災者に対する人道支援のため、緊急援助をした。現在、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはEU及びNATO加盟を、民族を超えた外交方針として努力している。

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