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  • リトアニア史余談32:連邦構想による国際連盟の調停/武田充司@クラス1955

     リトアニアとポーランドの領土問題をめぐる紛争の調停に努力してきた国際連盟も、1921年3月、住民投票実施に向けての努力を打ち切ったことによって、ついにヴィルニュス問題の解決というような具体的事項への対応を諦め、大局的な見地から両国の融和をはかる方向へと舵を切った。

    そこで、国際連盟が提案したのがポーランド・リトアニア連邦構想であったが、この構想の実質的な推進者はベルギーの政治家ポール・ヘイマンス(1)であった。
     リトアニアの人たちは、ポーランドと連邦国家を形成することによって、再びポーランドに従属するようになることを恐れていた(2)。一方、ポーランドは連邦構想には必ずしも反対ではなかったが、リトアニアがそれを受け入れるはずはないと思っていたから、交渉は決裂すると予想していた(3)。こうした状況下で、1921年5月14日、ベルギーのブリュッセルでリトアニアとポーランドの代表を招いて話合いがはじまった。ヘイマンスは、両国代表の言い分を聴いたあと、5月20日に具体的な連邦案を示した。その案では、リトアニアは連邦国家の中でカウナスとヴィルニュスの2つの州から構成されていた(4)。
     当初、両国ともこの案は受け入れ難いとしたのだが、結局、決裂を避けたい両国はこの案をベースに協議を続行することに合意した。そして、両国とも、このヘイマンス案に自国に有利な修正を加えることを目指した。ところが、5月28日になってポーランドは、この交渉の場に中央リトアニア共和国(5)の代表を招くことを要求した。これは、全くリトアニアには許し難いことであった。ヘイマンスもこの要求を拒否した。ここで交渉は行き詰まり、ポーランド・リトアニア問題は再び国際連盟の理事会に戻された(6)。
     それから2ヶ月近く経った8月27日、交渉の第2ラウンドが場所をブリュッセルからジュネーヴに移して開始された(7)。リトアニアはヘイマンスの修正案に条件付で同意し、交渉の続行を認めたが、ポーランドは拒否した。国際連盟理事会は調停を諦め、調停案に代わって「条約草案」を総会に送って承認をとり、両国に認めさせようとした(8)。
     しかし、この年の秋になると、リトアニア国内では政府の弱腰外交を詰る世論が沸騰し、軍はクーデターをちらつかせて政府を脅迫した。交渉にかかわった政治家や外交官は身の危険を感じていた。そして、11月25日、ついに、爆弾テロによってリトアニア代表のガルヴァナウスカスが重傷を負ったが、犯人捜査はうやむやにされ、誰も起訴されなかった。リトアニア政府は、それでもなお、話合いの継続を望んだが、激高する世論に押されて、12月24日(1921年)、ついに、国際連盟に対して「拒否」を通告した。こうして、国際連盟の調停は完全に行き詰まり、万事休したのだった。
    〔蛇足〕
    (1)ポール・ヘイマンス(Paul Hymans)はベルギーの著名な政治家であり外交官であった。彼は国際連盟の理事会の第2代議長となったが、生まれたばかりの国際連盟において、小国の立場を擁護した人物であった。
    (2)ポーランドとの連邦構想は、それまでのリトアニアの独立運動の苦労を無にする案であり、リトアニア人の心情を逆撫でするものであったが、当時、ヨーロッパでは連邦国家という構想を好感する雰囲気があったから、何ら代案を示さずに連邦構想を頑なに拒否すれば、リトアニアが連合国からの支持を失い、孤立する恐れがあった。
    (3)ポーランドは、リトアニアの拒否によって交渉が決裂すれば、リトアニアは国際連盟の同情を失って孤立するだろうから、それに乗じて、できる限り小さなリトアニア共和国の独立を認める提案を国際連盟にしてもらうよう水面下で働きかけていた。そうすれば、リトアニアは窮して、結局、ポーランドと連邦を組むことを認めるに違いないと考えていた。しかし、ポーランド国内の右派は、リトアニアの完全併合あるのみで、連邦国家など認めないという過激な主張に固執していたから、ポーランド政府代表は国内のそうした政敵にも注意して外交を展開していた。
    (4)ヘイマンスの案はスイス連邦を参考にしたものであったが、ヴィルニュス州(これをスイス連邦に倣ってCantonと呼んでいた)をポーランドでもリトアニアでもなく、独立の州としたところに彼の苦心の跡が見られた。と同時に、リトアニア人の地域が2つの州から構成されて、連邦の中で2票を持てるように配慮していた。
    (5)中央リトアニア共和国については、「余談:1920年10月9日」参照。ポーランドは、こうした要求を出してリトアニアを刺激し、交渉がリトアニアの責任で行き詰まるように仕向けた。このときポーランドは、リトアニアが連邦構想を拒否するという前提で行動していたので、リトアニアの忍耐強い態度に痺れを切らしていたようだ。
    (6)このあと、国際連盟の理事会はヘイマンス案を支持する決議を採択しているが、その決議の中にはリトアニアにとって好ましくない条項が幾つか含まれていたので、リトアニアはこうした条項を拒否するために外交努力を続けていた。
    (7)交渉の第2ラウンドが始まるまでの間、リトアニアはポーランドに対して、「スヴァウキ条約」(「余談:1920年10月9日」の蛇足(2)参照)を守ることや、ジェリゴフスキ将軍によって占領されているヴィルニュス地域の返還などの交渉を行っていたが、何ら進展は見られなかった。ポーランドは交渉を長引かせ、選択肢のない弱い立場リトアニアを疲れさせ、諦めさせることを狙っていた。そうした雰囲気の中で、両国とも、国際連盟の調停の第2ラウンド開始を受け入れた。これは、まさに、両国の我慢比べになっていた。
    (8)国際連盟は、調停という穏便な対応を打ち切り、リトアニアとポーランド両国がうけ入れるべき「条約草案」なるものを一方的に作成し、これを両国に認めさせようとした。しかし、その一方で、これによって首都ヴィルニュスを失うことになるリトアニアを慰撫する意図で、カウナスに政府を置くリトアニア共和国を承認し、応分の補償を行う用意があることを示したのだが、それは、ドイツ領であった東プロイセンのクライペダ地域(「余談:窓ガラスに刻まれたゲーテの詩」参照)をリトアニアに帰属させるというものであった。要するに、国際連盟は、ポーランド
    によるヴィルニュス地域の不当な占領を既成事実として容認し、これをリトアニアにも認させる代償として、敗戦国ドイツから取り上げたクライペダ地域をリトアニアに与え、リトアニアを慰撫して問題を解決しようとしたのだった。しかし、こうした不明朗な取引をリトアニアの世論が許すはずもなかった。(2014年8月記)
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