マケドニアの旅/大橋康隆@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
7月1日の午後、コソボのプリズレンを出発してバスで3時間30分、国境を越えてマケドニアの首都スコピエに到着した。
先ず、首都の北部に位置するカレ城塞の丘に登り、スコピエ市街を一望した。(写真1)ここから眺めると、北西から南東に流れるヴァルダル川を中心に半円形の市街が広がっている。現地ガイドさんの説明によると、1963年の大地震でスコピエの建物は80%が破壊され、死者1,000人を超す大惨事が起きたそうだ。その復興には、世界的に有名な建築家である丹下健三氏を中心に日本チームが携わり、当地では高く評価されていると聞き、日本人として嬉しかった。2011年の東日本大震災に対しては、支援する募金にマケドニアも協力した。
次いで城塞の東にあるオールド・バザールを眺めながら聖スパス教会を訪れた。(写真2)外観も特異であるが、内部の緻密な木彫は貴重な文化遺産だ。オールド・バザールには、オリエンタルな雰囲気が残っており、モスクの塔も目に入る。ここから南下して陸橋を渡り、聖ディミトリア教会、アート・ギャラリ(もとは15世紀のトルコ浴場)、国立劇場、考古学博物館を眺めて、ヴァルダル川にかかる石橋(カメン・モスト)を渡ってマケドニア広場に到着した。スコピエには数多くのモニュメントが建てられているが、この広場には有名なアレキサンダー大王の像が聳えている。(写真3)マケドニア広場の南東には、近代的なスコピエ・ショッピングセンターがある。ここから繁華街マケドニア通りを暫し南下して振り返ってみると、ビル街に挟まれた僅かな空間に、アレキサンダー大王の像が、東方に向って馬上から剣を振りかざしている横姿で、夕日に燦然と輝いており、都市計画の素晴らしさに改めて感心した。マケドニア通りを更に進むと、マザー・テレサ記念館がある。(写真4)この写真の少し左側の歩道にマザー・テレサの像が立っている。更に南下して市街の南端にあるスコピエ博物館に到着した。1963年の大地震で半壊した旧鉄道駅を利用した博物館である。建物の左端には、大時計が大地震の5時17分を指したまま、保存されている。この近くには、丹下健三氏らが設計した高層マンションがあるが、既に老朽化している。新しいスコピエ中央駅は旧駅から東方1Kmの郊外に建設されている。
7月2日スコピエのホテルで朝食をとり、バスに乗って3時間、ビトラのヘラクレア遺跡を訪れた。ビトラの町は、アレキサンダー大王の父、フィリップ2世が建設したが、当時はヘラクレアと呼ばれていた。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスに由来している。この遺跡には古代の教会、公衆浴場、劇場跡がある。教会の建物は姿を消しているが、床のモザイクは貴重な遺跡である。(写真5)当時の劇場は2,000人を収容したと言われている。(写真6)
ビトラからバスで2時間、マケドニア屈指の世界遺産オフリドに到着した。聖クリメント教会(写真7)、古代劇場、サミュエル要塞、聖ヨハネ・カネオ教会(写真8)等を訪れた。サミュエル要塞からは、オフリド湖の素晴らしい風景が一望できる。市内観光後は遊覧船に乗り、オフリド湖からオフリドの様々な建築物を見上げながら眺めを堪能した。(写真9)夕方ホテルに辿り着いた時は、疲労感も忘れて夕食をとりながら満足感に浸った。
マケドニア共和国は、1991年に独立宣言をしたが、1993年にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国という暫定国名で国連に加盟して、日本も承認した。日本は無償・有償資金協力、技術協力をして、有力な支援国の一つである。2013年には東京に大使館が開設され、2014年7月1日に日本マケドニア首脳会談が行われた。マケドニアは周辺国の一部を含む地域の名称であるが、マケドニア共和国は現在の国境により設定されており、面積は九州の約2/3位、人口約200万人、通貨はデナルである。観光地ではユーロが結構使えるが、釣銭はデナルで返ってくる。歴史を辿ると15世紀以降オスマントルコに支配され、1918年セルビア人、クロアチア人、スロバニア人王国に支配され、1945年から旧ユーゴスラビアに属していた。隣国のギリシャからは国名問題で提訴され苦労しているが、貿易額や観光客は最大である。マケドニアには親日家も多いので、今後の発展を期待したい。
2014年8月16日 記>級会消息