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  • リトアニア史余談25:トロイの木馬/武田充司@クラス1955

     1918年11月11日、ドイツの敗北によって第1次世界大戦が終ると、その2日後にロシアの革命政権は、その年の3月3日にドイツと結んだ屈辱的なブレスト・リトフスク条約を破棄した(※1)。

     そして、ロシアにいたリトアニア人活動家が、スターリンの指令をうけて、ボリシェヴィキ政権樹立を目指してリトアニアにもどってきた(※2)。

    一方、リトアニアに居座っていたドイツ軍は、暫くすると、東プロイセンに向けて撤退を開始した(※3)。しかし、その撤退するドイツ軍と入れかわるように、その年の暮れには、赤軍がリトアニアに入ってきた。

     リトアニア国家評議会(※4)は、第1次世界大戦終結の直前に、暫定憲法を採択し、アウグスティナス・ヴォルデマラス教授を首班とする臨時政府を樹立していた(※5)。しかし、奇妙なことに、ヴォルデマラス首相は、リトアニアは周辺から脅威をうけないので軍隊は必要ないという論理で、国防軍の創設に関心を示さなかった。徴税組織もなく、したがって、財源もなく、国境も画定していないリトアニアは混乱していた。そうした状況の中で、力の空白状態が出現していたリトアニアに、ボリシェヴィキの脅威が容赦なく迫ってきた。

     厳しい現実に直面したヴォルデマラス内閣は、11月23日、ボリシェヴィキのリトアニア侵攻を阻止するために国防軍の創設を決断した。国防軍はロシアからもどってきた旧ロシア帝国軍所属のリトアニア人兵士や将校たちによって編成された。

     しかし、スターリンの命をうけてリトアニアに戻ってきたボリシェヴィキたちは、12月8日、ヴィンカス・カプスカス(※6)を首班とする、お手盛りの暫定リトアニア革命政府、「リトアニア地区労働者農民革命政府」をつくり、12月16日、自分たちはリトアニアにおける正当なソヴィエト政権であり、リトアニアがソヴィエト・ロシアの一部となったと宣言した。それは赤軍をリトアニアに迎え入れるためのトロイの木馬であった。

     さっそく、リトアニア師団と改称された赤軍のプスコフ師団が、ロシアの他の地区からやって来た部隊とともに、北方からリトアニア東部に侵攻してきた。そして、翌年(1919年)の1月5日、リトアニアの首都ヴィルニュスは赤軍の手に落ちた(※7)。リトアニア政府はヴィルニュスの西方100kmに位置するリトアニア第2の都市カウナスに逃れ、撤退するドイツ軍を引き止めて赤軍の西進を阻止してもらった(※8)。

     首都ヴィルニュスを含むリトアニア東部を制圧した赤軍は、1919年2月、「リトアニア・ベラルーシ社会主義共和国」(※9)を設立し、リトアニアを代表する正統な政権は、カウナスの政府ではなく、我々であると宣言した(※10)。

    〔蛇足〕
    (※1)ブレスト・リトフスク講和条約は、トロッキーの強硬な交渉態度がわざわいして、一旦中止されたが(「余談:独立回復への一里塚」参照)、2月下旬に再開された。この時のソヴィエト政権の代表は現実的解決を志向したレーニンであったが、態度を硬化させたドイツ側に押し切られる形で、3月3日(1918年)、レーニンは史上稀な屈辱的条件を呑まされて条約に調印した。この条約で、ソヴィエト政権はリトアニアに対する全ての権利を放棄した。しかし、ドイツが敗北した直後の1918年11月13日にソヴィエト政権がこの講和条約を破棄した結果、リトアニアに対するソヴィエト政権の立場は白紙にもどった。これは、当時のリトアニアにとって重大な変化であった。
    (※2)このときリトアニアにもどってきたリトアニア人ボリシェヴィキは、ヴィンカス・カプスカス(Vincas Kapsukas)、ジグマス・アレクサ・アンガリエティス(Zigmas Aleksa-Angarietis)らのグループであった。彼らがリトアニアに革命政権を樹立すれば、その政権の名のもとに、ロシアから赤軍をリトアニアにうけ入れる手筈になっていた。
    (※3)ドイツ敗北後もリトアニアにとどまっていたドイツ軍のモラルは低下し、上官の命令よりもドイツ各地の「労兵評議会」(レーテ〔R$00E4te〕)の言うことに注目していたという。したがって、この時点では、リトアニアはドイツ軍の早期撤退を望んでいた。
    (※4)この年(1918年)の7月に、リトアニア評議会が、ヴュルテンベルク王国のウーラーハ公ヴィルヘルムを国王に迎えてリトアニアを立憲君主国家とする決議をしたとき、左派の4人が評議会を脱退したが、そのあと、保守派の6人の評議員を加えて22人構成の評議会とした(「余談:幻の立憲君主国家」蛇足(※6)参照)。このとき、評議会の名称も「リトアニア国家評議会」と改められた。
    (※5)リトアニア国家評議会は、立憲君主国家構想を白紙にもどした11月2日の会議で、暫定憲法を採択し、リトアニア国家評議会を立法府(議会)と定め、その議長を実質的な国家元首とした。そして、アンタナス・スメトナ(Antanas Smetona)を議長に選出している。アウグスティナス・ヴォルデマラス(Augustinas Voldemaras)教授が首班に指名されたのは、その3日後の11月5日で、大戦が終った日(11月11日)に初のリトアニア共和国内閣が発足した。
    (※6)ヴィンカス・カプスカス(Vincas Kapsukas)は「蛇足(※2)」で述べた人物である。
    (※7)赤軍がヴィルニュスに迫っていた1918年12月20日、リトアニア国家評議会議長スメトナと首相ヴォルデマラスは、突然、ドイツに出かけてしまった。それは、この緊急事態に対処するため、ドイツから資金援助を得るためといわれているが、一般の人たちにとっては敵前逃亡のように見えた。2人に代わってリトアニア政府の指揮をとったのは、ロシアから戻ってきたばかりのミコラス・スレジェヴィチウス(Mykolas Slezevicius)であった。彼は「リトアニアの独立を守るために立ち上がろう!」と人々に呼びかけ、首都ヴィルニュスの防衛に奮闘したが、結局、カウナスまで撤退を余儀なくされた。
    (※8)撤退しようとしていた5個大隊のドイツ義勇軍は、リトアニア政府の説得に応じて撤退を中止し、カウナス(Kaunas)‐アリートゥス(Alytus)‐グロドノ(Grodno)を結ぶ南北の線に留まった。ドイツ軍もまた、赤軍が東プロイセンにまで侵攻してくるのを恐れていたから、ここで撤退を中止したのだ。この措置によって、リトアニアは国防軍を強化する時間的余裕をえた。
    (※9)「リトアニア・ベラルーシ社会主義共和国」(Lithuanian-Belarusian Soviet Socialist Republic)は「リトベル」(Litbel)と略称される。彼らは、ここを足場に、ポーランドにボリシェヴィキ革命を起そうとしていた。
    (※10)しかし、進駐してきた赤軍はひどい装備で、食糧もろくに持たず、リトアニアの農民から食糧や衣服、馬までも調達した。そのため、ボリシェヴィキ政権はリトアニア人の間では全く人気がなかった。
     (2014年1月記)
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