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  • リトアニア史余談19:ユニークな野外博物館/武田充司@クラス1955

     首都ヴィルニュスから放射状にのびる幹線道路のひとつA4に乗って南西方向に車を走らせると、やがて深い森の中に入る。それはリトアニアの中で最も美しい森林地帯のひとつである。

    秋になると、森の中で採ってきたばかりの茸を売る人たちが、沿道に点々と並んでいるのを見かける。この道は、リトアニア南端の高級保養地ドゥルスキニンカイ(※1)を経て、ベラルーシのフロドナ(※2)からポーランドの首都ワルシャワに至る道だが、ドゥルスキニンカイの少し手前の左側にグルータス(※3)という村があり、そこに大変ユニークな野外博物館がある。
     ソ連時代のリトアニアでは、ソヴィエト共産党のプロパガンダを象徴する多くの銅像や彫刻があちこちに建てられたが、ソ連が崩壊し、リトアニアが独立を回復すると同時に、それらの銅像はあっという間に引き倒され、取り外されて姿を消した。そして、それらの銅像は人目に付かないように保管された。ところが、ヴィリュマス・マリナウスカス(※4)という奇矯な人物が現れ、そうしたソ連時代の銅像を集めて展示することを思いついた。彼は、展示場として、グルータスに自分が所有する200ヘクタールの土地の一隅に公園を造ることにした。

     さっそく、彼は多額の資金を注ぎこんで銅像集めに奔走した。しかし、ソ連時代の悪夢を思い出させるような彼の企画に様々な拒否反応が起こった(※5)それでも屈しないマリナウスカスは、幾多の障害をのりこえ、ついに数10の撤去されたソ連時代の銅像を集めることに成功した。そして、公園の整備も進んだ。

     ところが、彼の企画に反対する一部の有力国会議員たちの政治的圧力によって、公園の正式なオープンは許可されなかった。それでも、好奇心旺盛な人たちが噂を聞きつけて公園を訪れはじめると、商才にたけた彼はこうした人たちを有料で受け入れた。そして、ロシア語もできる専門のガイドを用意して、来訪者を園内くまなく案内させ、ひとつひとつの像について詳しく説明させた(※6)結局、こうした彼の頑張りと既成事実に押された形で、2001年4月1日、公園の公開は正式に認められた。

     湿地帯に造成された広大な森林公園の中には、くねくねと張りめぐらされた排水路と、全長2kmにも及ぶ遊歩道が整備されている。入場券を手に公園に足を踏み入れると、コートのボタンの間に手を入れたスターリンの立像が出迎えてくれる。そして、遊歩道を歩いて行くと、美しい白樺の木立や水路を背景に、ひとつ、またひとつと、共産主義者のプロパガンダを体現した個性あふれる銅像が現れる。大きな石の上に足組みをして腰を下ろし、じっとこちらを見ているレーニンの像にひょっこり出会ったりして、何とも不思議な世界に遊ぶことができる(※7)なお、この野外博物館の設立者ヴィリュマス・マリナウスカスは、2001年の「イグ・ノーベル平和賞」に輝いている(※8)

    〔蛇足〕

    (※1)ドゥルスキニンカイ(Druskininkai)は鉱泉に恵まれた保養地で、ソ連時代にはモスクワ辺りから多くの要人たちが保養に訪れ、滞在していたという。現在は、いっそう高級化して、富豪たちの集まるモダンな保養地となっている。なお、ここには、リトアニアの生んだ最高の芸術家チュルリョーニス一家が長年住んでいた家が残っていて、現在はチュルリョーニス記念博物館になっている。

    (※2)フロドナ(Hrodna)は歴史的にはグロドノ(Grodno)と呼ばれ、13世紀中頃のミンダウガス王時代からリトアニアの支配下にあった。リトアニア人はガルディナス(Gardinas)と呼んでいる。

    (※3)グルータス(Grutas)はA4がドゥルスキニンカイの町に入る5kmほど手前の南東側にある。

    (※4)ヴィリュマス・マリナウスカス(Viliumas Malinauskas)は、ソ連時代の1980年代中頃に、ヘソナ(Hesona)という会社を立ち上げ、それ以来ずっとその会社を家族で経営していたが、健康上の理由から、鉱泉による治療を求めてドゥルスキニンカイにやってきた。ところが、このあたりの土地は痩せていて農業には適さないが、広大な森は茸とベリー類の宝庫である。リトアニアが独立を回復して自由に商売ができるようになったとき、マリナウスカス一家はこうした茸やベリー類を買い集めて輸出したり、加工品を作って販売したりして財を成した。そのうちに、この地方の生産量だけでは不足し、ベラルーシなどから安い茸を買い集めて商売の規模を拡大した。大成功したマリナウスカスは、グルータスに、「キノコ御殿」と揶揄される豪邸を構えた。なお、茸は、チーズと並んで、リトアニアの主要な農産物輸出品である。

    (※5)彼の構想が明らかになると、リトアニア人の間に複雑な反応をひき起こした。ヴィルニュス空港近くのアート・スタジオに保管されていたソ連時代の銅像の払い下げを申請したマリナウスカスに対して、政府の文化財保護委員会は許可を与えたのだが、国会がそれを承認しなかった。国会議員の多くは、こうした像が民間人の手で造られた公園に展示されることに強い嫌悪感を抱いた。ソ連時代の悪夢を思い出させるものに対する拒否反応と、この展示がソ連時代へのノスタルジアをかき立て、あの時代を肯定する社会的風潮を生み出すことへの政治的危惧が入り混じっていた。しかし、それでも、1998年12月31日、マリナウスカスはヴィルニュスのアート・スタジオに保管されていたソ連時代の銅像たちを買い取ることに成功した。

    (※6)まだ公式には開園していない1999年10月、リトアニアの友人の案内でここを訪れたが、既に、立派なカラー刷りの入場券(当時は5リタスだった)も用意されていた。そして、ガイドの女性が公園内の像をひとつひとつ丁寧に案内して説明してくれた。

    (※7)ヴィルニュスのルキシュキュー広場にあったレーニン像(「余談:ヴィルニュスのルキシュキュー広場」参照)も、ここで見ることができる。

    (※8)この野外博物館の正式名称は「グルータス公園」(Grutas Park:リトアニア語でグルート・パルカス〔Gruto parkas〕)と言うそうだが、今や、「スターリンの世界(Stalin’s World)」などという愛称で呼ばれ、世界中から観光客が訪れる人気スポットになっているようだ。しかし、インターネットに載っている多数の映像を見るにつけ、この公園を訪れてああした写真を撮っている若い世代と、ソ連時代の圧政下に生きたリトアニアの老人たち世代とを隔てる埋め難いギャップの存在に気付かされ、心が痛む。そして、リトアニアの人々も、この公園の是非をめぐって、これからも対立を続けるのだろう。$00A0$00A0 (2013年7月 記)

    1件のコメント »
    1. 武田兄のリトアニア史余談は毎回興味深く読みながら、コメントを書く機会を逃して申し訳ないと思っています。リトアニア史の刺激を受けて、先般6月26日~7月6日にバルト3国へのツアーに参加しましたが、目下ブログ原稿の作成中です。「リトアニアの旅」は、(その1)でバルト3国ツアーのルート図の紹介と、首都ヴィリュニュス観光の写真、(その2)ではカウナスで杉原記念館を訪れた感動と、十字架の丘を訪れて撮影した写真を紹介する予定です。ツアーですので、思うように写真が撮れていませんが、できるだけ多くの写真を掲載しますので、昔と現在の比較をして下さい。
      昨日、参議院選挙がありましたが、投票率の低さを見るにつけ、武田兄が紹介されたリトアニアの選挙の話を思い出します。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年7月22日 @ 06:40

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