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  • 「ミッドウェイ海戦」―【Ⅲ】/寺山進@クラス1955

                 旧友南雲忠彦君を偲ぶ

    2. 朝比奈宗源師   (つづき)
     南雲忠彦君の結婚披露宴には、朝比奈宗源師が新郎側の主賓として招かれていた。


    当然真っ先に祝辞を述べることになる。師の挨拶は新郎の紹介というよりも寧ろ南雲家の紹介といったおもむきが強かった記憶があるが、先ず南雲君の長姉の結婚式の思い出から始まった。
     式が行われたのは、太平洋戦争の始まる数日前の事だった。その時は新婦側の主賓として招かれていた宗源師が、会場の水交社に到着してみると、新婦側の海軍関係者が新婦の父親も含め誰一人顔を見せていなかった。やむを得ず、師が新婦の父親代行の役割を果たして何とか式を遂行させた。
     「幾ら風雲急を告げているといっても、娘の結婚式位は出席出来そうなものなのに・・と呑気な事を云っていたのであるが、豈図らんや、我が南雲艦隊は一路真珠湾へ・真珠湾へと秘かに忍び寄っていたのであった・・・」と、師の挨拶は中々の名調子だった。

     式に参列させて貰った小生が、一寸気になったことがあった。その一つは、師が挨拶の中で父君に言及する時必ず「南雲大将」と云われた事である。考えてみれば、この呼び方のほうが当たり前の筈である。
    連合艦隊司令長官の方は「山本元帥」と呼ばれていて「山本大将」とは云わない。しかし戦死後の進級という点では同じなのに、何故か一般的には「南雲中将」と呼ばれる。 

     もう一点は南雲家の関係者から「容姿風貌から性格まで、故提督に一番似ているのは忠彦君だ」という話を聞いた事である。
    南雲君は五人兄弟の末っ子である。長姉の下に三人の兄上がおられる。長兄は台湾沖で戦死されたが、次兄と三兄は海兵在学中に終戦になったので、ともに東大の工学部に入り直し、民間会社に勤務された。写真で見ると四人の男兄弟みな父上そっくりの顔をしているが、兄上は皆大柄なのに忠彦君だけやや小柄で、そんな事も尚更父親似の印象を強めたのかもしれない。

     余談になるが南雲君は普通よりもやや早く生まれて来たらしい。当時としては最高級の海軍病院の保育器の中で、何週間かを過ごしたのだと本人から聞いた。國頭君から病状を知らされ、国立第二病院に南雲君を見舞った級友もいると思うが、これは旧海軍病院である。彼は早く生まれ、同じ場所で早く逝ってしまった。痛恨の極みである。

     「南雲中将」が最も批判を浴びるのは、ミッドウェイ海戦に於ける例の有名な場面である。出発が遅れた「利根4号機」から「敵らしきもの、見ゆ」次いで「敵はその後方に空母らしきものを伴う」との入電があった。配下の第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と意見具申をした。つまり取りあえず艦爆隊だけを、例え陸上爆弾でも戦闘機の護衛なしでも、とにかく発進させて敵空母の甲板を叩け、という意見であった。 
     提督は戦爆雷連合の本格的な攻撃法を選び、この意見具申は採用しなかった。発進に手間取っている間に米海軍得意の急降下爆撃隊の奇襲に会い、無敵の南雲機動部隊は一瞬の内に壊滅した。

     この時しかないという唯一のチャンスに、攻撃隊の損害を顧みず全機発進を命じた米海軍第16機動部隊司令長官レイモンド・スプルーアンス少将と比較され、南雲の優柔不断、決断力不足、わずかな損害を躊躇して大損失を蒙った・・など売文史家や三流評論家の格好の餌食にされた。勿論半藤一利氏のような方は、三流とか売文の範疇に入れてはいない。
     
     この問題はしかしそう単純なものではない。この時点で勝つ確率の高い選択は寧ろ南雲決定ではないかと云う見方も出来る。
     但し小生は幾ら旧友の父親だからといって南雲中将に責任がないと主張する積りは全く無い。戦争では運や偶然、更には錯誤の積み重ねも含めた結果がすべてであり、この敗北の責任をまず負わねばならないのは、現場の最高責任者である南雲忠一第一航空艦隊司令長官以外にはない。
     ただ、深い洞察力も無いくせに尤もらしい理屈をつけてこの件をネタにし、売名や売文に利用する輩が許せないだけである。

     ミッドウェイでのあの瞬間や真珠湾で継続の第二波攻撃を取り止める決定を下した瞬間に、父上と性格がよく似ているという忠彦君だったらどう決断しただろうか。
    帰りの夜行列車の中でそんな想像をしてみた事をきっかけに、太平洋戦争特にミッドウェイ海戦の史実にのめりこんでいく事になってしまった。
     
     本論に入る前に、もう一つだけエピソ-ドを紹介しておきたい。それはこの披露宴の二三年前の出来事であるが、ハワイでの或る米海軍・退役軍人との思いもかけない出会いである。 
        2013年3月1日

    2 Comments »
    1.  寺山君のこのレポートは前回から感心して読んでいました。有難う御座います。
      僕は、一時、南雲君の兄さん(どちらの兄さんかは僕には分かりませんが)と同じ職場の、同じ大部屋で仕事をしていたことがありました。寺山君もここに書いているように、お兄さんは背の高い人で、確か、土木か建築の専門家だったと思います。しかし、南雲君と顔立ちがよく似ていていました。お兄さんは、僕が南雲君の同級生であることを知って、専門は違うエンジニア同士ですが、親しく声をかけてくれたことを覚えています。
       また、南雲君が亡くなる数週間前だったか、駒沢にあった(この辺の記憶は定かではないのですが)病院に見舞いに行きましたが、状況が分かっていた僕にとっては、何と言ってよいかわからない、つらい面会でした。ところが、彼は、病室では話も自由にできないからといって、病院のレストラン(?)にどっかり腰を据えて、もう長くはないが、今は元気だから、元気なうちは、友人たちと大いに話をしたいといいながら、淡々と会話を楽しんでいるのでした。おたおたしている僕の方が、彼に元気づけられたような格好で病院を辞去したことを覚えています。あの病院が、旧海軍病院だったとは知りませんでした。
       南雲君との付き合いは、寺山君や国頭君などには遠く及ばない、薄いものでしたが、それでも、書き出すと切りがないので、この辺にしておきます。

      コメント by 武田充司 — 2013年3月7日 @ 22:00

    2. 武田兄がご一緒に仕事されたのは、二つ上の兄上(三男の明氏)です。東大の土木を出て当初東北電力に入社されましたが、その後東京でコンサルタントの仕事をされていた筈です。
      国立第二病院は名称が変わりましたが、今でもあります。住所は目黒区東が丘ですが、道一つ隔てて「駒沢オリンピック公園」で、世田谷との境界です。
      最後のお見舞いの状況は、小生も武田兄と全く同じでした。これを思い出すと國頭君も思い出してしまうので余計に辛く、普段は強いて忘れようとしているのだと気づきます。

      コメント by 寺山進 — 2013年3月8日 @ 10:25

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