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  • リトアニア史余談14:国旗と国章 /武田充司@クラス1955

     リトアニアの国旗は横縞の三色旗で、上から順に、黄、緑、赤である。

    第1次世界大戦末期の1918年2月16日、リトアニアは独立を宣言したが(1)、それから間もない1918年4月25日、リトアニア評議会(事実上の国会)において、これが国旗として正式に認められた。

     これより先に、国旗をつくるための実行委員会が開かれ、4月19日にこの3色旗のデザインが提案されたのだが、そこに至るまでの興味深い経緯が伝えられている。最初に提案されたデザインは緑と赤の2色旗であったという。これは、リトアニアの農民が昔から織っていたサッシュ(飾帯)に最もよく使われていた色であるという理由で選ばれたようだ。ところが、その印象が少し地味だったので、黄色をつけ加えて生気を吹き込むことにした。こうして、黄、緑、赤の3色旗のデザインが生まれた(2)。

     一番上の黄は夜明けの太陽を、真ん中の緑はリトアニアの森と牧草地を、下の赤は日没を表しているという解説がつけられた。しかし、この3色旗は紋章学的にも歴史的にも、リトアニア国旗として必ずしもよく考えられたものではないと言われている。実際、このとき、国旗の制定にかかわった評議員たちは、多くの重要な問題を議論して決めなければならなかったから、国旗のデザインについて十分時間をかけて検討する余裕もなく、提案されたものを承認したようだ。

     とはいえ、この国旗に慣れ親しむと、これはこれでとても美しい。この3色旗は普通のリトアニア人の家庭にある布切れから簡単に作れるという利点があったから、独立回復直後の困難な時代には、多くの人が手製の国旗を掲げて大いに士気を高めたのだ。これは実に素晴らしい国旗の効果だった(3)。
     しかし、リトアニアの国旗として本当に相応しいデザインは、このときの独立運動のリーダーのひとりであったヨナス・バサナヴィチウス(4)によって提案されたものだという。それは、赤地に馬上の騎士を描いたもので、この「馬上の騎士」はリトアニア大公国の紋章として昔から使われていたものである(5)。だが、当時、赤はボリシェヴィキのシンボル色として嫌われていたため、このデザインは採用されなかった(6)。その後、1939年になって、当時の大統領スメトナ(7)がこのバサナヴィチウスの旗を国旗にしようとしたが、その直後に第2次世界大戦が勃発したため、話は立ち消えになった。しかし、ソ連崩壊後に独立を回復したリトアニアは、赤地の盾の中に剣を振り上げた馬上の騎士を白銀色で描いた紋章を正式に国章とした(8)。この国章は、国旗とともに、現在のリトアニア共和国を象徴する役割を分かちあっている(9)。

    〔蛇足〕

    (1)「リトアニア史余談:ヴィルニュスのピリエス通り」で紹介したように、リトアニアの国土がまだドイツの支配下にあった1918年2月16日に、リトアニアは独立を宣言した。

    (2)この黄色をつけ加えたのはタダス・ダウギルダス(Tadas Daugirdas)という芸術的センスのある人だったと言われている。

    (3)1918年秋に第1次世界大戦が終わっても、独立宣言をしたリトアニアの国際的地位は不安定で、侵攻してきた赤軍との戦いや、リトアニアを併合して大ポーランド連邦を建設しようとするポーランド軍との戦いなどが、1920年秋まで続いたから、国民の士気を高める国旗の役割は大きかった。現在でも、首都ヴィルニュスのゲディミナスの丘の塔の上には黄・緑・赤の3色旗が常に翻っている。その誇らしげな光景は高い建物のない旧市街からは、どこからでも見ることができる。そこには、独立国であることの誇りと過去の記憶を共有しようとするリトアニア人の思いが投影されているようだ。

    (4)ヨナス・バサナヴィチウス(Jonas Basanavicius:1851年生~1927年没)は、リトアニアの民族運動のリーダーで、ロシア帝国支配下にあった19世紀末に「アウシュラ(Ausra:夜明け)」というリトアニア語の雑誌の地下出版を始めた人物であり、1918年2月16日の独立宣言署名者20人の中のひとりである。

    (5)これがリトアニア大公の紋章として使われ始めたのは、アルギルダス大公(在位1345年~1377年)時代の1366年であるという。なお、それ以後、紋章の「馬上の騎士」(ヴィティス〔Vytis〕)のデザインは細かい点で様々に変化した。このヴィティスは、その昔、正義の味方であり戦の神様であるペルクーナス(Perkunas:雷神、バルト族の最高神)の化身を騎士の姿として描いたものが起源であるという。

    (6)この時代のリトアニア人が赤軍やソヴィエト政権を嫌ったことは当然のことだが、第2次世界大戦後、この傾向は益々激しくなり、現在のリトアニア憲法は共産党を禁止している。また、ナチの「鍵十字」も法律で禁止されている。

    (7)アンタナス・スメトナ(Antanas Smetona:大統領在位1919年~1920年、1926年~1940年)は、第1次世界大戦後のリトアニア独立時に活躍した有力な政治家であり、独立宣言署名者のひとりである。1944年1月9日、亡命先の米国クリーヴランドの自宅の火災で焼死した。

    (8)1991年9月4日に制定された。

    (9)たとえば、リトアニアの大統領旗のデザインは、国章のヴィティス(馬上の騎士)の左側に白いグリフィン(ギリシャ神話に出てくる怪鳥)、右側に一角獣が配されたものである。また、各国にあるリトアニア大使館の表札には、この国章が使われている。

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    1件のコメント »
    1. Wikipediaにリトアニアの国旗の詳細な解説が出ている。「馬上の騎士」も政府旗として紹介されている。URLは長いので省略するが、IEの検索欄に「リトアニア 国旗」とキイワードを入れて検索すると出てくる。
      ついでにちょっと脱線して(?)、我が「日の丸」について調べてみたら1855年(安政2年)島津斉彬が洋式軍艦「昇平丸」を幕府に献上したとき初めて「日章旗」が船尾部に掲揚され、これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号とのこと。1859年(安政6年)幕府は日章旗を「御国総標」にするとの触れ書きを出し、事実上国旗としての地位を確立した。
      1860年(万延元年)日米通商条約の批准書交換のため幕府使節団がアメリカに派遣されるが、アメリカ軍艦と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。ワシントンで合衆国大統領に謁見、批准書の交換を終えてから使節団一行はニューヨークを訪問し、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウエイをパレードした。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされている。

      コメント by 大曲 恒雄 — 2013年2月21日 @ 13:06

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