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  • 「ミッドウェイ海戦」―【Ⅰ】/寺山進@クラス1955

      旧友南雲忠彦君を偲ぶ
    1.$00A0出会い
    小生が初めて南雲忠彦君と出会ったのは昭和28年(1953年)の2月頃で、もう60年も昔の事である。雨宮綾夫教授の数学の授業を終えて廊下に出てくると、もう故人になってしまった國頭暁君に呼び止められた。

     「この先生は矢鱈に落第点を付けるので有名だ。そんなことをしない様に頼みに行くから、お前も一緒に付いて来い」と云う。小生は即座に断った。「そんな頼みを、おいそれと聞いて呉れるような相手ではないだろう」
     この時、傍でニヤニヤ笑いながら二人の顔を見ていたのが南雲君であった。
     結局、國頭君は一人で行って先生に叱られたらしい。「そんな詰まらぬ事を云いに来る閑があったら、その間に勉強しろ」至極もっともなご意見である。
     ところが試験の成績をチェックしてみると、小生と南雲君は辛うじて進級出来た・・というレベルであったのに、國頭君だけ「優」であった。二人とも頭にきて「お前は面構えの割には肝っ玉が小さい」と國頭君にからんで憂さ晴らしをした。

     帰る方向が同じだったこともあり、話をする機会も増えていった。本郷に行ってからも、休み時間には良くグラウンドに出かけて野球やサッカ-をして遊んだ。故塚原澄夫君なども一緒の事が多かった。故人の名前が多く出てくるが、今でも元気で時々横浜30会でお目にかかる大曲恒雄君や大橋康隆君のグラウンド上での様子なども、小生は良く覚えている。
    南雲君は小柄なのに敏捷で運動神経抜群だった。スポ-ツに限らず何事も達者で、スケ-ルの大きい人物であった。
      この頃には既にサンフランシスコ平和条約も発効され、太平洋戦争の史実が少しずつ明らかになりかけていた。戦時中は海兵志望の熱狂的な軍事少年だった小生ではあるが、大本営発表の余りの出鱈目ぶりに落胆する一方で、GHQ主導の「真相はこうだ」式の日本民族蔑視思想にも耐えられなかった。海軍や海戦史への関心を強いて逸らせようとしていた時期だったと思う。
     しかし南雲という苗字には記憶があったので、ある時何気なく「君の家系に海軍の偉い人が居られたのか?」と聞いてみた。所が普段は温厚な彼が突然顔色を変え「そんな事、どうだっていいじゃないか」と吐き捨てるように言うと、口元をへの字に曲げてソッポを向いてしまった。顔を右斜め上方に向ける彼の癖は度々お目にかかる事になるのだが、この時ほど厳しい表情はその後全く見た覚えがない。
     小生は慌ててその場を取り繕った。
     念のため國頭君に確かめてみた。すると彼は、独特の大きな眼を一杯に見開き口元をポカンと開けて「呆れた!」といった表情をした。「お前はそんな事も知らなかったのか。あれは南雲中将の息子だよ。ハワイ・ミッドウェイの機動部隊司令長官だ。ただ、これを云うと彼は不機嫌になるから、知らん顔をしていた方がいい」と些か遅きに失した忠告であった。
     國頭君も詳しい史実を承知していた訳でも無かった。日本海軍虎の子の空母を四隻も失うというミッドウェイ海戦の、直接の責任者であった父君に触れられるのは当然不愉快だろう。二人ともその程度の認識だったように思う。
     実際はこの時点で既に、淵田美津雄・奥宮正武・両氏の共著である「ミッドウェ-」が出版されていた。名著と評判のこの本は、世界各国の海軍関係者に読まれて来ている古典的な文献ではあるが、多少「勇み足」的な記述が混じった、いわば玉石混交といったしろものでもある。映画やドラマでは劇的な場面となる「運命の五分間」や「片肺出撃」などは代表的な「勇み足」であるが「南雲中将論」もその類に近い。
     しかしいったん世間に流布してしまった評価、つまり「南雲凡将論」や「無能提督論」が見直されるには、ごく最近に至る迄の長い時間を必要とした。
     不機嫌や不愉快といった表現では済まされない感情を抑えきれなかった、当時の彼の気持ちは誰にも分からないものだったのだと思う。
     結局その後の40年にわたる交友を通じ、彼の面前で父君の話題が出たのは唯一度だけに終わってしまった。しかしその一度の機会は意外に早く訪れていたのであった。
                         2013年2月10日

    3 Comments »
    1. 本文半ば近く「本郷に行ってからも・・・」の所に小生の名前が出てくるので、ふと思い出して前の記録を調べてみたら2009/9/1号掲載の「卒論の頃」に添付したアルバムの写真に(しかも“Center Position”に)南雲君が写っています。
      小生は、南雲君との付き合いはそれほど深くなかったのですが、大変温厚な感じの人だったという記憶があります。

      コメント by 大曲 恒雄 — 2013年2月16日 @ 17:24

    2. 電気科時代は、南雲中将のご子息とも知らずに野球の時だけ仲良くプレーしていた。南雲君はサードで軽快な球捌きをしており、小生は岡山の草野球で揉まれていたのでショートをしていた。南雲君と三遊間のコンビを組んだことは今でも覚えている。当時、電気科だけで5大学野球というのがあったと思うが、どの大学が加入していたのか記憶がない。卒業後は、話をする機会もなく、残念である。
      定年後、油絵の展示会で、岡山朝日高の3年後輩のT君から南雲君の話を聞きました。T君が
      三菱商事の新人の頃、南雲君に報告書を提出したら、書き方がなってないと言われ、詳細に亘って指導を受けたので、感銘を受けたそうです。T君の兄は私と同級生で、手紙の依頼でT君は東大入試の間、大西君と私と3人で6畳の部屋に暮らし、無事合格しました。T君は私の妹とも同級生で、偶然油絵の展示会で再会し、ロマンスグレイの三菱紳士になっていたので、さすが三菱の鍛え方はすごいねと感心していました。
      定年後のミニゴルフ会では、富士見CCで南雲夫人と2度程一緒にラウンドしましたが、スコアは遥かに上で、小生のドライバーが飛ぶ時だけ褒めていただきました。
      ミッドウエー海戦についてはTVや映画での知識しかありません。まとまった本を読んでいないので、続編を期待しています。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年2月16日 @ 18:18

    3.  大曲兄:
       早々とコメント頂き有難う御座います。早速写真を拡大して見てみました。懐かしい顔が並んでいますね。
       ただ、横浜30会で時々会う貴兄や大橋兄の若かりし頃の顔は、他の人より良く覚えているような気がします。会うたびに、無意識のうちに思い出していたのでしょう。本文でお二人の名前を出したのも、多分そのせいです。
       
       大橋兄:
       早速のコメント有難う御座います。貴兄と南雲兄が三遊間を守っていたのは良く覚えているのですが、南雲遊撃、大橋三塁だと思っていました。今でもこの布陣が目に浮かぶのですが、貴兄の方が正しいのでしょうね。
       南雲兄が部下の報告書を丁寧にチェックしていたという挿話、興味深く読みました。父君も勇猛果敢と云われる一方で、部下思いでもあり、部下の報告書などに朱筆を入れる一面もあったという記録も残っています。

      コメント by 寺山進 — 2013年2月16日 @ 20:13

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