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  • リトアニア史余談4:ヴィルニュスのピリエス通り/武田充司@クラス1955

     リトアニア観光に行った人は必ずピリエス通り(※1)を歩いているといって間違いない。

    14世紀前半、ゲディミナス大公がヴィルニュスを首都として本格的な街造りをはじめて以来、下の城(※2)の南門から発して真っ直ぐ南へ伸びるピリエス通りはこの町の背骨であった。ヴィルニュスの旧市街はこの通りを中心に左右に展開している。1994年12月、ヴィルニュスの旧市街全体がユネスコの世界文化遺産に登録された。
     ピリエス通りには中世の面影を残す古い建物が多い。しかし、両側に並ぶ屋台や店のショーウィンドを眺めながら歩いていると、その楽しさのあまり、両側の歴史的建物のファサードを見上げることをつい忘れてしまう。ピリエス通りからは左右にスカポ(※3)や聖ミコロ(※4)といった古い小路がのびているが、そんな路地に入り込めば中世の街にタイムスリップしたような気分になる。

     お城から南に向かって緩やかな登り坂になっているピリエス通りがヴィリュス大学の教会裏を過ぎたところに小さな広場があるが、その向かいの26番地(※5)に現在のリトアニア共和国にとって特別な意味をもつ建物がある。第1次大戦の最中の1917年3月、ニコライ2世が退位してロシアに臨時政府ができると、その年の9月、ロシア帝国からの独立回復を目指すリトアニアの同士たちがリトアニア評議会を結成した。それから間もない11月7日、ソヴィエト政権が成立し、「平和に関する布告」を出した。その内容に勇気づけられたリトアニア評議会は、それから1ヶ月あまり後の1917年12月11日、リトアニアの独立回復を決議した。そして、翌1818年2月16日の午後12時30分、ヴィルニュスのピリエス通り26番地の建物の2階のオフィスに集まったリトアニア評議会のメンバー20人が独立回復宣言に署名した。当時、この建物の1階はシュトラリス・コーヒー・ハウス(※6)という名の喫茶店になっていて、その2階をリトアニア評議会が事務所として借りていたのである。

     この宣言署名から1ヶ月あまり経った3月23日、ドイツがリトアニアの独立を承認した。ドイツは3月3日に史上稀に見る厳しい条約であるといわれた「ブレスト・リトフスク(※7)講和条約」をレーニンに認めさせた直後で、リトアニアを自国の支配下に組み込もうとする意図が明白であった。新生リトアニアの苦難の道はここから始まった。

     独立承認と引き換えに難題を押し付けるドイツもこの年の11月11日、連合軍と休戦協定を結んで敗退し、第1次世界大戦は終結した。そして、この日、リトアニアに最初の政府が誕生した。しかし、国内のポーランド人との路線対立、ドイツ軍の撤退にともなうリトアニア国軍の創設をめぐる混乱、スターリンの命によって進駐してきた赤軍に協力するリトアニア人ボリシェヴィキの活動、ドイツに代わってリトアニアを保護国にしようとするソヴィエト政権との戦い、こうした問題の解決は、結局、連合国と米国による戦後処理に委ねられた。このとき、19世紀後半に米国に移住した多数のリトアニア系アメリカ人の政治活動や経済的支援が大きな役割を果たした(※8)

     しかし、最後のそして最も深刻な問題は1920年秋に起こったポーランド軍によるヴィルニュス地区の占領であった。リトアニアは首都を失い、このときからカウナスを臨時首都とした。両大戦間におけるリトアニアの首都がカウナスであったのはこのためである。「ヴィルニュス問題」は、その後、リトアニアとポーランドの間に打ち込まれた楔となり、リトアニア人の心に深く突き刺さった棘となった。しかも、独立直後のリトアニア外交を危険な方向に歪める原因ともなった。

     独立回復宣言が署名された建物は「署名者の館」と呼ばれ、当時の部屋が小さな記念館になっている。現在、リトアニアでは2月16日が「独立記念日」である。また、ヴィルニュス市内には「2月16日通り」という名の道もある。ついでながら、「署名者の館」の隣にある瀟洒なホテル、ナルーティス(※9)の1泊はお奨めである。
    〔蛇足〕
    $00A0 (※1)ピリエス通り(Pilies Gatve)とは「お城通り」という意味である。今では、大聖堂の広場の南東端から入る道といった方が分かり易いだろう。
    $00A0 (※2)ヴィルニュスの城は、丘の上に築かれた軍事用の「上の城」と住居として築かれた「下の城」に分かれている。
    $00A0 (※3)スカポ(Skapo)の先には大統領府がある。
    $00A0 (※4)聖ミコロ(Sv. Mikolo)を突き抜けると、ナポレオンがパリに持って帰りたいといった聖アンナ教会が目前である。しかし、その手前にある聖大天使ミカエル教会も忘れてはいけない。小路の名ミコロはこのミカエル教会に由来する。
    $00A0 (※5)ピリエス通りの番地は、大聖堂広場から行くと左側(東側)が偶数である。
    $00A0 (※6)この建物は1890年代にカジミエシ・シュトラル(Kazimierz Sztral)という裕福な商人によって豪華なファサードを持った建物に建て替えられた。喫茶店はこの人の名を取っている。
    $00A0 (※7)ブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)とは「リトアニアのブレスト」という意味で、今はベラルーシの町ブレストであるが、14世紀以来リトアニアと深く結びついた都市である。
    $00A0 (※8)今回、ソ連が崩壊してリトアニアが独立を回復した時にも、リトアニア系米国人は祖国のために様々な働きをしている。
    $00A0 (※9)ナルーティス(Narutis)ホテルの地下のレストランもお奨めである。ヴィルニュス旧市街の多くの建物の地上部分は何度も壊されて再建されているが、地下室(セラー)は昔のまま残っているから、中世の面影を味わいたかったら地下レストランがよい。
    (2012年6月 記)
    1件のコメント »
    1. リトアニアから米国に移って来た人達については私も記憶があります。半世紀以上も前の話ですが思い出して、コメントには少し長いので、別途このBlogでお話したいと思います。

      コメント by 小林 凱 — 2012年6月20日 @ 17:02

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