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  • リトアニア史余談3:十字架の丘/武田充司@クラス1955

     「十字架の丘」はリトアニア北部の都市シャウレイ(*1)の北東15kmほどのところにある。

    今ではここを訪れる観光客も多く、丘の前の広場に何台もの観光バスが停まっている光景がよく見られる。「バルト3国めぐり」のツアーで、ラトヴィアの首都リガからリトアニアの首都ヴィルニュスに移動してくるバス旅行のルート上にあるため、日本人観光客も多い。しかし、人口のほぼ80%がカトリック教徒で占められているリトアニアでは、ほとんどのリトアニア人が一度は訪れる聖なる場所である。
     僕が初めてここを訪れたのは1998年の秋だった。遠くから丘に近づいて行くと、ぎっしりと立ち並んだ大小無数の十字架で覆われた丘が、周囲の広々とした開放的な景観の中にぽつんと取り残されように存在する。身体にまつわりつくような霊気を感じて、突然、恐山の霊場に行ったときのことを思い出した。この世とあの世の境目に来て、あの世から僅かに漏れてくる風に吹かれているような気分になった。
     あの当時、この丘には大小約55,000もの十字架が立っていたが、毎日、新しい十字架が加わるので、その数は日ごとに増え続けている。人々はこの丘にきて亡くなった家族を思ったり、シベリア送りになった苦難の時代を生き抜いて帰ることができたことに感謝したり、あるいは、祖国リトアニアの独立回復を神に感謝したりして、次々と十字架を立ててゆく。広い駐車場のまわりには、様々なロザリオを売っている屋台が幾つも並んでいる。そこで買った粗末なロザリオを丘の十字架のひとつに懸けて祈る人も多い。
     1831年、ロシア帝国の専制支配から脱して独立を回復しようとして立ち上がったリトアニア人の反乱(*2)が鎮圧されたあと、この丘に十字架が立てられようになったと言われている。この反乱で命を落とした犠牲者を悼んで、生き残った周辺の住民が立てたのだろう。しかし、この場所には、その昔、城があったと伝えられている。その城は1348年にドイツ騎士団の攻撃によって焼き払われ、消滅したという。ソ連支配の時代には、1961年、73年、74年、75年と、くり返しソ連軍がこの丘を削り、破壊したのだが、壊しても、壊しても、丘は復旧され、丘の十字架はいつの間にか増えていたという。地元には、ソ連時代のこのような破壊行為にまつわるミステリー話が幾つも残っている。
     1960年代の終りに、この丘は集団農場(*3)の一部に属していたが、反社会主義的邪魔物として、この丘を取り壊すことになった。そこで、KGB(*4)と民兵が周辺の道路を閉鎖し、トラクターの運転手を募集して作業を始めようとした。作業の報酬として、当時の習慣にしたがってウオツカが与えられたので、彼らは丘の近くで先ずウオツカを飲み干した。飲み終わったひとりは恐ろしくなってそのまま逃亡してしまったが、残った作業員は言われるままに作業をした。しかし、それから2週間後に作業をした者たちはひどい頭痛に襲われ、間もなくみな死んでしまったという。このほかにも、こうした話は地元に数多く伝えられている。
     1993年9月7日、時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(*5)がこの丘を訪れ、盛大なミサが執り行われた。そして、大きな十字架が立てられた。その後、このときのヨハネ・パウロ2世の言葉にしたがって、この丘の近くに修道院が建設され、2000年春に完成した。この丘を訪れたなら、近くに見えるこの修道院まで歩いて往復するのもよいだろう。そこにはレストランもある。また、丘の周辺では、運がよければ、結婚式を挙げたばかりの華やかな新婚カップルの笑顔に出会うこともある(*6)
    〔蛇足〕
    $00A0(*1)シャウレイ(Siauliai)は、リトアニアの首都ヴィルニュスの北東約200kmにある。リトアニア史上に名高い1236年9月の「サウレ(Saule)の戦い」の古戦場もこの近くである。
    (*2)この反乱は1831年2月にロシア帝国がリトアニア人に対して布告した強制的な徴兵制度が直接の原因であるが、前年(1830年)にパリで起った「7月革命」が影響している。「7月革命」の年の11月に、先ず、ポーランドで反乱が起った。当時のポーランドはロシア皇帝を共通の君主とする同君連合国家ポーランド王国であったが、実質的には、ロシアの属国であった。そして、翌年3月にリトアニアで大規模な反乱が起り、これにポーランドの反乱軍が加勢して、一時は反乱軍による臨時政府までできたが、結局、ロシア軍に鎮圧され、悲惨な結末を迎えた。
    (*3)我々世代がなじんだ言葉でいえばコルホーズ(Kolkhoz)である。
    (*4)ソ連時代の国家保安委員会の略称であるが、当時のリトアニア人がKGBを如何に嫌悪し恐れたかは、とうてい現代の我々には理解も想像もできない。
    (*5)ヨハネ・パウロ2世(在位1978年10月~2005年4月)はポーランド出身の教皇として知られているが、彼の母はリトアニアの人である。
    (*6)リトアニアでは、結婚式を挙げたあと、新婚カップルは近くの適当な場所に行き、家族や友人たちと一緒に記念写真を撮ったりして数時間過ごし、そのあと楽しい結婚披露パーティに臨む。十字架の丘も、近くの教会で結婚式を挙げた新婚カップルの記念撮影の場所となっているようだ。
    (2012年6月 記)
    2 Comments »
    1. 十字架の丘のことについては、Wikipediaに写真入りの記事が出ているので参考までに紹介しておきます。
      URLは下記の通りです。
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E4%B8%98

      コメント by 大曲 恒雄 — 2012年6月1日 @ 09:25

    2. 小さな山に無数の十字架が奉納されるという異様な光景。その場にいなければわからない感慨でしょう。お稲荷様の鳥居でもなし、千社札でもなしと思っていましたら恐山での経験を譬えにだしていただいて、私にも少しその場の雰囲気がわかったような気がしました。荒涼とした岩の中での「いたこ」の声が思い出されます。ロシアといえばキリスト教の国と思っていますが、やはりロシア正教とリトアニアではちがうのでしょうか。いつも紛争の種になる宗教とは難しいものです。この旅ではさぞ多くのことを得られたのだろうと思います。

      コメント by サイトウ — 2012年6月2日 @ 08:57

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