カメラ思い出話(その1)/大曲恒雄@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
小生が初めて写真を撮ったのは中3の頃(65年くらい前)で、父が持っていたドイツ製の大きな蛇腹型カメラ(写真機と言うべき?)に乾板をセットして友達や家族を撮した。
乾板は今のサービスサイズほどのガラス板に感光剤を塗ったもの。真っ暗な所で専用のパッケージに乾板を入れ、写真機にセットしてから遮光板を開け撮影に臨む。1カット撮る毎にパッケージを取り替え、またパッケージから乾板を取り出すのも真っ暗な所でやらねばならず大変面倒だった。かなり慎重にやったつもりだったが、その時撮した写真を見ると横から漏れた光がかなり入っている。
初めて自分のカメラを持ったのは大学に入ってからで、多分入学祝いにもらったものだと思う。蛇腹式のセミパール(*1)、メーカーは小西六で後のコニカ。ブローニ版を半分にして使うタイプで、当時はこれが標準スタイルだったと思う。プリントは密着焼き(サイズは名刺の半分程度)が普通で、特別の場合だけ名刺判または手札版に伸ばしていた。
(*1)このカメラは“往年の名機”だったようで、インターネットで検索したら資料が幾つか見つかった。参考までに下記に1件引用しておく。
$00A0$00A0 http://asacame.fc2web.com/hsp120rf/konisipearl.htm
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$00A0(写真1) |
この頃は勿論露出計など無い時代だから、晴天の場合は(例えば)1/100、曇天の場合は1/25でシャッターを切るというような一応の常識があり、それにFeedbackをかけながら写真を撮っていたと思う。(写真1)はS.28/5に相模湖へハイキングに行った時に撮したスナップ写真である。
駒場時代の友人Y君はかなり写真に凝っていて、ライカをコピーしたニッカカメラを愛用していた。小生はその頃西武線の東長崎駅近くに下宿していたが、Y君が時々訪ねてきては下宿の一人娘を引っ張り出して写真を撮っていた。そのうちに“熱を上げてしまった”らしいが、残念ながら片想いで終わったようだ。
その後、コニカSを経てアサヒペンタックスを使った。このカメラは35ミリ版、レンズ交換のできるいわば本格派で、一眼レフ黎明期の名機である。まだ露出計が連動になる以前の時代で、専用の露出計をペンタプリズムの上に載せて使っていた。折角レンズ交換可能のカメラを入手したのだからと広角レンズ及び望遠レンズを揃えた(当時まだズームレンズは無かった)が、レンズ交換が意外と面倒であったためにそれほど活用しないまま中古カメラ買い取り店行きとなってしまった。
1996年春にAPS(Advanced Photo System)カメラ(*2)が誕生。フィルムがコンパクトになり、カメラへの装着も楽になってこれぞ未来のカメラシステムであると宣伝された。小生も早速コニカC35を購入(後にIXYへ切り替え)、それまで使っていたカメラに比べてコンパクトなこと、フィルム装着が楽なことから大いに撮影を楽しんだ。
(*2)コダック、富士写真フィルム、キャノン、ニコン、ミノルタの5社が共同開発した新システム。従来の35ミリフィルムはカメラへの装着がかなり面倒で、うっかりすると空回りしたりして苦労させられたものだが、APSではカートリッジをカメラに装着すると自動的に1枚目の位置まで送ってくれる。
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$00A0 (写真2) |
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(写真2)はAPSの特長を生かして大ヒットしたIXYのパンフレットで、「カメラを着よう」というキャッチフレーズがカッコ良かった。
これらの利点から、いずれAPSが従来の35ミリフィルムのシステムに取って代わるのではないかと思っていたが、画面サイズの小ささなどがネックになって結局主役の座を奪うことはできなかった。
昨年(2011年)秋、ヨドバシカメラのフィルム売り場に「APSフィルムの販売を12月末で終了します」との張り紙が出ていて非常に寂しい思いを味わわされた。
そう言えば、今年1月名門コダックが遂に経営破綻し、破産法の適用を申請した。小生はコダックについて特別の思い入れは無いが、昔から写真を愛してきた人たちにとっては「ふる里が消えたような」ショックだったのではないかと想像する。過去の成功体験があまりに大きかったためデジカメ時代への対応に失敗したと言われているが、時代の流れ、現実の厳しさを改めて実感させられる。
以下、(その2)に続く
2012年3月1日 記>級会消息
「カメラ思い出話(その1)」を懐かしく拝読しました。中3の頃から写真を撮っていたとは驚きです。カメラマンとしてのキャリアは、小生より数段上のレベルですね。小生は1961年に留学する時、初めて免税でコニカのカメラを購入しました。当時大変困ったのは、フィルムをコダックに郵送し、送付先を日本の留守宅にしたことでした。本人はうまく撮影できているか確認できないのです。妹から手紙を受け取り、初めてホッとしました。暫くすると、会社の仲間達が母と妹のいる留守宅に押しかけてきて、秘密上映会を始めたそうです。会社の偉い方々のスライドは教会ばかりだが、小生のは若い女性の写真が多くて大好評だったという手紙を受け取りました。寮の近くにある郵便ボックスにコダックフィルムを投函する時は、無事到着することを祈っていました。以後、1974年までお世話になったコダックが、経営破綻するとはショックです。そういえば、昔お世話になったパンアメリカン航空もいつの間にか姿を消してしまいました。「夏草や兵どもが夢の跡」という俳句が実感として迫ってきます。
コメント by 大橋康隆 — 2012年3月1日 @ 13:19
記憶・記録の達人には毎度脱帽です。小生も昭和20年代にミノルタの蛇腹式のカメラやマミヤの16mm用カメラで遊んだ経験があります。小生の場合カメラは美術や芸術ではなく機械に興味があったようです。トピックとして前者では,自動発光装置を作って夜中にねずみを撮影,後者ではカラー現像セットを入手し,カラーフィルムを16mmカメラ用に自作カッターで4分割して撮影・現像したりしました。また,シャッタのチャッタ現象を見つけて,当時御茶ノ水?にあったマミヤ本社に出かけ,開発者に疑問をぶつけた記憶があります。
コメント by 森山寛美 — 2012年3月2日 @ 11:34
大曲さんの記憶の正確さには全く感心します。また写真のお蔭でみんなと一緒に相模湖へ行った事を思い出しました。
ここで私もカメラを持っている様に見えますが、それは少し前に中古で買ったコニカの35mm版ではないかと思います。写す時にレンズ/シャッターの部分を引き出す構造だった様に記憶します。しかし懐かしいですね。
コメント by 小林 凱 — 2012年3月2日 @ 16:20
記憶が怪しくならないうちにと思って「思い出話」シリーズを書き始めたら予想外に好評を頂き、少々恐縮しています。
寺山兄とは違った切り口で昔のことを思い出してみるのも一興かと思いますので、軽い気持ちでお付き合い下さい。
コメント by 大曲 恒雄 — 2012年3月4日 @ 15:22
いいお話ですね。私が初めて持ったカメラも大曲さんと同じセミパール。前玉回転で距離を合わせる蛇腹式でした。戦後間もなく親父がどこで手に入れたのか買ってきてくれて、私の高校時代(旧制八高)の卒業アルバムの制作に大きく貢献してくれた懐かしい代物です。大事にとっておいたはずなのですが、すぐには見当たりませんでした。どこかにひっそりと隠れているのでしょう。それから65年、暗室での現像、定着ということも、DP屋もなくなってのデジカメ時代。時代の変化に感無量です。やがて自動車もコンビニで売られるようになる時代も来そうです。
コメント by サイトウ — 2012年3月5日 @ 11:32