オリンピックの辰年(その1)/寺山進@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
辰年には必ずオリンピックが開催される。当たり前の事だが余り意識されていない。
申年と子年も同様であるが、その他の十二支の年には決して行われない。同級生には1932年壬申の生まれが多いと思うが、この年はロス・アンジェルスだった。南部忠平の三段跳び、後に硫黄島で戦死したバロン西の馬術等計7個の金メダルを取っている。
壬辰の今年、2012年の年賀状に東京オリンピック1964年甲辰の思い出を書いた。早速斎藤兄からメ-ルを頂いた。兄はこの時NHKの放送に携わっており、開会式から閉会式まで国立競技場に居続けた由。さすがに既に専門家として活躍されていた。他の同級生諸氏も同様であろう。
小生の方はというと、社内で数少ない電気屋を集めたチームのプレイイング・マネ-ジャをしていた。電気・電子・計装・制御・通信・計測等々機械とか鉄骨構造物(所謂ドンガラ)以外の新しい技術分野を、何でも引き受けるのが任務である。船の自動化、ボイラ-やタ-ビンの制御装置など製品に付属させる物もあれば、社内設備用もある。良く云えば「浅くとも広い分野を扱う専門家」となるが「ますらお派出夫会」の便利屋のごとき存在でもあった。この時既に原子力の方は、調査段階だけ終えた後に手を引いていたが、新たにコンピュ-タが出て来た。すべて学校では殆ど習っていない新分野である。もっとも学生時代に講座があったとしても,たぶん殆ど勉強はしていなかっただろう。
この時期の言語に絶する忙しさだけは記憶に残っている。上層部にクレイムをつけたが、面白い上司で「お前はこの芸者置き場随一の売れっ子だ。しかしお座敷が掛っているうちが花なのだ。すぐにお茶を引くように成る。下を見ろ。若くて綺麗なのが続々と入って来ている。」と真面目な顔で云われて妙に納得してしまった。
田舎の工場勤務で周りにはこの関係の専門家が皆無である。情報は雑誌、特にアメリカのElectronicsなどに頼った。文字通り手探りの勉強である。余談になるが始めて出て来る専門用語には苦労した。1960年ごろ、astableという単語の意味がどうしても分からない事があった。気分が滅入ってしまったが、次の週にbi-stable、 mono-stableという単語を見つけて拍子抜けした。Multi-vibratorの紹介記事だった。「a-stableと書いてくれ」と腹が立った。
何万馬力ものエンジンの実負荷試験期間を少しでも縮めると、莫大な費用が浮くのである。人間の目視・読み取りに頼っていたテスト・デ-タ収集の自動化には力を入れた。discreteのbi-polar transistorを使って自己流で計測システムを作り上げた。電子部品の値段など、例えば一日の燃料代と比べるとネグリジブル・スモ-ルである。予算を大分流用して、贅沢な電子システムの試作・実験を行う事が出来た。
ある時Fairchild社が産業用の電界効果トランジスタを発売すると云う記事を目にしたので、直ちに購入手配をした。専門家は別として一般人では、uni-polar transistorを使って直流増幅器を日本で初めて試作したのは小生だと思う。Bi-polar型と異なり回路設計の考え方は真空管同様なので懐かしかったが、この世界初の製品はgateの絶縁が極端に弱く、すぐに絶縁破壊してしまう。当初は特殊なハンダ鏝を使う必要がある事など知らなかったので、何本かをあっという間にオシャカにしてしまった。ありふれたbi-polarに比べて値段が桁違いに高く、一本当たり大学卒初任給の何倍もしたので、流石に「一寸勿体ない事をしたな」と反省した。
しかしこのタイプは直ぐに集積化が進み、discreteの素子で回路設計をする必要が無くなった。アナログ回路もブロック化され、市販された。その後産業用コンピュ-タが普及し、ソフトの比重が増大して行く事になる。「Data-gathering system」などと銘打った専門メ-カ-の市販品が出回るようになると、この分野からの「お座敷」はもう掛って来なくなった。
入社直後の事だが、計算尺の支給願を出したところ「近頃の若いのは技術者の魂まで会社に用意させるのか」と先輩に怒られた。武士の魂、刀と同じだというのである。もっとも1960年頃にアメリカの大学生が腰に西部劇風のガン・ベルトを巻きつけ、計算尺を差入れているのを見た事がある。武士の刀とガンマンのガン、大脳皮質の古い領域に近づくと、洋の東西を問わず同じ様な感覚になるのであろう。
因みにこの時代、アメリカで市販の計算尺は日本のヘンミ製・竹の材料が最高級で、アメリカ製・特殊合金材料の二倍程の値段だった。カメラやトランジスタ・ラジオ等日本製品の優秀さが漸く認められて来てはいたが、圧倒的に優れているソニ-のラジオの方が、大きくて重いZenith社よりも値段が安かった。その頃に、ヘンミは最高の値付けをされていた。テレビや自動車が進出するよりも遥か以前の話である。
東京の次の辰年オリンピックは1976年モントリオ-ルである。次いで1988年のソウル、2000年のシドニ-と続く。一度では書ききれないので、二三回に分ける事にしたい。しばらくはブログのテ-マに悩む事もなさそうである。引き続き「その2―1976年モントリオ-ル篇」を投稿したい。
2012年1月16日 記>級会消息
面白い話いろいろ、興味深く読ませてもらいました。
・小生も1932年生まれですが、この年がオリンピック・イヤーだったことは初めて認識しました。改めて本棚にあった「1億人の昭和史(上)」(毎日新聞社)を開いてみたら「昭和7年」の項には30ページ割かれているもののオリンピックのことは半ページほど、残りの大部分は第一次上海事件、満州国建国、満州主要都市の紹介などで埋まっており、改めて時代の“匂い”が感じられます。
・電気工学科の卒業生は電気に関係のある就職先に落ち着くのが当たり前だった時代に敢えて異業種(?)の世界に飛び込まれた貴兄の勇気にまず敬意を表したいと思います。当然苦労も多かったと思いますが、その代わりに前人未踏の曠野を切り開いて行くような快感、自分の好きなように仕事がやれる面白みもあったことと推察します。
・東京オリンピックの頃、我々世代はまさに働き盛りで「コキ使われ放題」でした。小生の場合、残業時間が組合との協定を超えそうになり、延長交渉をしてワクを広げてもらったけれどまた直ぐに超えてしまい、遂にサービス残業とせざるを得ないこともありました。残業料が通常の給料より多かったこともありました。
・ヘンミの計算尺の話、大変懐かしく読みました。実は昨年末に押し入れの整理をしていたら奥にあった箱の中からヘンミが出て来て何十年ぶりかの再会を果たしました。当時はこの計算尺と対数表がエンジニアの必携道具で随分お世話になったものです。
コメント by 大曲 恒雄 — 2012年1月16日 @ 10:45
寺山様 大変面白く懐かしい話を有難うございました。それにしましても、豪快な上司の話、それに妙に納得したとの話、思わず吹き出してしまいました。良き時代の話ですね。
小生も1932年申年生まれですがオリンピクの年とは意識していませんでした。
バロン西の話は、映画で若い人にも知られましたね。検索で調べましたら、ベルリン大会にも出場し、落馬して失格になったが、ドイツの選手に勝ちを譲ったのではないかと言われたそうです。手持ちのベルリン大会の記録「民族の記録」のDVDを見ましたが、残念ながら馬術はここでは記録されていなかったので、バロン西の雄姿は見られませんでした。
計算尺の話は小生も大変に懐かしく読みました。急いで調べてみますと、いまだ3本あり、戦後間もないころ、父が東京の闇市で買ってきてくれたヘンミの計算尺、(これは、逆C(CI)がついていないので不自由しました。もう一本は、ヘンミNo.255高級電気技術者用で、おそらく1953年頃買ったものと思います。これは職場でもずっと使っていました。何と「ヘンミ計算尺 使用法説明書」まで出てきました。これは、1951年発行で、後ろに値段表が出ており、これは¥3000でした。我々の月謝が¥300で年間で¥3600ですから高価だったですね。最も12吋LPが¥2700でした。
また、「六桁対数計算書」も出てきたので、我ながら物持ちが良いのに驚き、呆れました。
なおもう一本の計算尺は、ポケットに入る携帯用の小型計算尺でした。
懐かしい思い出を有難うございました。
コメント by 新田義雄 — 2012年1月16日 @ 15:18
寺山兄の話は示唆に富んでいて、毎回興味深く読んでいます。とりわけ今回は東京オリンピックの話で、色々なことを思い出しました。
実は、小生の最初の海外出張は1964年3月で、ロスアンゼルスの近くにあるヒューズ航空会社でした。NECの無線、伝送、交換、通信制御、研究所から技術者がチームを組んで,静止衛星の地上局を制作するための打合せでした。会議の合間に、シンコム衛星と同じ大きさのモデルを見せてもらいました。意外に小型で、静止位置の微調整をするエンジンがオモチャのようでした。思わず「こんなエンジンで大丈夫か?」と質問したら、「君、宇宙は真空だからね。」と笑われました。当時、この出張は極秘扱いで、尋ねられたら「ニューヨーク博覧会に出張した。」と言うことになっていました。
このシンコム衛星3号は、1964年8月19日に打ち上げに成功して、10月の東京オリンピックで活躍しました。静止衛星が通信で実用できることが立証され、衛星時代の幕開けとなったのです。
計算尺についても、色々思い出があります。一番印象に残っているのは、K大先輩です。学生時代に、小生はNECの極超短波(マイクロ)係で夏季実習をしました。その時の係長が K大先輩です。入社後は伝送に配属されたので、無線の競争相手になってしまいました。しかし、衛星関係では共同プロジェクトで、横浜事業所に赴き総合試験などを行いました。K大先輩は無線の総帥でしたが、会議の席上では常に作業衣の上ポケットに計算尺を差しておられました。「私はエンジニアに徹していますから。」が口癖でした。先般、あるOB会でお元気なK大先輩にお会いしました。
コメント by 大橋康隆 — 2012年1月16日 @ 18:28
発表当日早々から素晴らしいコメントを寄せて下さった、大曲、新田、大橋の諸兄に感謝・感激です。お蔭さまでブログ全体が見違えるほど充実したものになりました。
計算尺に懐かしさを感じる同級生も多いようですね。皆さん物持ちが良いので、小生も昔使った計算尺を探してみました。胸のポケットに入れる小さい方は直ぐに見つかりましたが、大型の方は何処にあるのか分かりません。実際には殆ど小型の方で間に合っていました。A,B,C,D,とCIが付いています。昔というかもっと昔、新田兄の父上の時代にはCIが無かったのでしょうか。
コメント by 寺山進 — 2012年1月18日 @ 06:42