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  • パソコン事始め/大橋康隆@クラス1955

     パソコンを購入して使い始めたのは1985年1月からである。


    通信自由化の大変革により、1984年11月14日に設立された新会社の日本高速通信(株)にNECから出向した。最初は役員だけで、東京駅に近い永楽ビル5階の2部屋を借りて、役員室と応接室を確保した。建設省技監、首都高速道路公団理事長を歴任されたK社長の電話番は、私の役目の一つであった。「日本高速通信は探偵会社ですか?」という問い合わせもあり、前途多難を覚悟した。
     先ずは出資をいただいた各社から管理職に出向をお願いして組織の骨格を年内に固め、1985年1月から第17森ビルに転居して漸く仕事が始まった。ある日、K社長が「パソコンの勉強をしたい。」と言われたので、技術部のT課長に日比谷のC&Cプラザに案内して説明をするように依頼した。帰社後、K社長は大変満足の様子で「大橋君、君はパソコンの会社に勤めていたが、パソコンを持っているかね。」と尋ねられて参った。大至急パソコンを購入したがソフトで困った。NECに勤務中は、社命で管理職全員は休日に若い技術者からパソコンの講習を受けていたが、日頃は有能な女性の書記さんが情報処理を代行していたので、パソコンを使いこなせない。
     早速、秋葉原にとんで行き「馬鹿でもチョンでも使えるソフトを買いたい。」と頼んだ。「旦那にピッタリのソフトがありますよ。」と言って勧められたのがVAL研究所の「パピルス」であった。少々高価であったが背に腹は代えられない。直ちに購入した。このソフトは私にとって正に救世主であった。マニュアルを読んだり、勉強することもなく使えるようになった。これは日本の最初の統合ソフトで、ファラオ、ナイルと進化したソフトを継続して使った。その後WINDOWS のWORKSに移った。

     この大切な「パピルス」のFDは所在不明となったが、「ファラオ」のFDを見つけたので写真1に掲載する。またWINDOWSの初期にお世話になった「碁の研究」のFDを写真2に掲載する。 4写真1 ファラオFD(60%).jpg 4写真2 碁の研究FD(70%).jpg
    写真1
    写真2

     その頃、岡山朝日高校の関東地区同期会の常任幹事として名簿の管理をしていた同期生がオーストラリアに行くので代わりをして欲しいと頼まれた。丁度パソコンを購入した時でもあり快く引き受けた。クラス別に分類した名簿を入力するのは大変であったが、その後担当クラスの幹事も順次パソコンが使えるようになった。
     日本高速通信でも技術者を除くとパソコンが使える社員は少数だったので、OA委員会を組織してパソコンの普及を徹底して仕事の効率化と明確化に努めた。1990年7月にNECケーブルメディア(株)に勤務することになったが、ケーブルテレビの分野は未だアナログ技術が中核でありデジタル技術と光技術の導入が急務であった。早速OA委員会を組織して、パソコンの普及に努めた。若い女性社員が講師として講習をしたが、年配の事務系社員は素直に習得しようとはしない。私も暇を見つけては同席したので、真面目にせざるを得なくなった。事務系社員が苦労した原因も分かった。彼らはワープロには慣れていたが、ローマ字入力に閉口していたのである。今年もパソコンで印刷した彼らの年賀状を眺めると、当時の苦労が偲ばれる。
     新年に当たりパソコンの思い出を書くには訳がある。昨年11月に、6年間使用していたパソコンの電源が突然ダウンして起動しなくなった。そろそろ買い換えなければと思っていた矢先だったので、WINDOWS 7のパソコンを新規に購入した。これまでは壊れる前に買い換えていたので、簡単に移行できたが、今回は大変だった。幸い外付けHDに大事な情報はバックアップしていたが、問題もあった。2001年からデジカメを使用していたが、初期のデジカメデータは直接PCのアルバムに保存して、WINDOWSのMy Picture に保存していなかった。真面目にヴァージョンアップしていなかったので、HDから読み出せない。日頃の安全管理の重要性を痛感した。
     この騒動で、1961年から1974年まで使用していた貴重なスライドがあることを思い出し、PCに保存することを思い立った。修理期限の過ぎた古いスキャナーでスキャンして退色復元し逆光補正をすると、時間はかかるが、黴の変色を除けば思ったより綺麗な画像を保存することができた。昔のKodakの技術の素晴らしさに改めて感心した。更に、1997年に退職記念講演「光陰矢の如し」で、42年間に亘る会社生活の自慢話と失敗談をしたが、その時使用した56枚のスライドのコピーを記念として贈られていたのを発見してPCに保存した。その結果、充血した右目で新年を迎える羽目になった。

    4 Comments »
    1. 小生の方は大橋兄よりずっと遅く、そろそろ週に一二回の勤めもお役ご免になろうとしていた頃、確か目黒での同窓会の後である。Windows Meだった。なんとなく使えるようにはなって行ったが、キ-打ちだけは難しかった。「最初が肝心だから両手で正式に!」と皆に言われたが、結局今でも右手の人差指一本である。
       それよりも、最後に実際にコンピュ-タをいじった頃、つまり主記憶4kのOKITACと比べて驚嘆の毎日だった。One crickでこんな事が出来る、こんなになってしまう。同じ原理の機械だということが、どうしても信じられなかった。いや、いまでもそうである。

      コメント by 寺山進 — 2012年1月11日 @ 08:43

    2. 大橋兄へ 興味深く読ませてもらいました。実は小生も「パソコン思い出話」というタイトルで一文を寄稿しようと準備を始めていた所でした。
      小生のPCスタートは1989年夏、東芝のダイナブックからで、初代ダイナブックのJ-3100SSが華々しくデビューしてから2年後のことでした。J-3100SSは20万円を切る値付けで、価格の点でも評判になりましたがHDDがなく、後に出たHDD内蔵モデルはかなり高価でした。小生が買ったJ-3100SLというモデルは標準価格が45万円くらい、秋葉原の石丸電気まで出かけて30数万円の割引価格で買った記憶があります。その後NECの98 Mateシリーズやゲートウェイ、デルなどを遍歴し2000年頃から自作派に転向しましたが、OSもMS-DOSからWindowsへ、それも3.1~95~98~Me~XPへとどんどん変わっていき、まさに激動の時代でした。
      近いうちにまとめて報告したいと思っています。

      コメント by 大曲 恒雄 — 2012年1月11日 @ 11:50

    3. 早々にコメント有難うございました。
      寺山兄も右手の人差指一本で入力されているのを知り安心しました。勤務時代は練習の時間がなく、定年後は時間があっても思考速度が遅くなって、指一本で十分間に合っています。
      寺山兄は、アナコン、ミニコンの時代からコンピュータに鍛えられているので、この分野では小生より大先輩だと思います。小生は、日本高速通信に出向して初めて料金コンピュータを使う立場になり、大型のソフトの大変さを痛感しました。
      大曲兄には、「パソコン思い出話」を期待しています。MS-DOSからWINDOWSへの変遷の過程や経験をぜひお願いします。昔のパソコンのマニュアルには最初に「MS-DOSを起動して」と書いてあるので、初心者は参ってしまいました。「MS-DOS ってなんどすか?」という本が出版されて、小生も Microsoft Disk Operating System の略号であることを知り、パソコンに対するアレルギーが一挙に消えました。

      コメント by 大橋康隆 — 2012年1月13日 @ 21:41

    4. 大橋兄へ: 「小生がコンピュ-タに鍛えられて、この分野では貴兄の大先輩」とは幾らなんでも過大評価です。今日のブログにも書いたように、「何でも屋」で何にでも一寸触ったことが有るというだけです。しかも、プログラムを多少真面目にやった頃はカード入力でしたので、プログラム・シ-トを鉛筆で塗りつぶす迄です。あとはキ-・パンチャ-、オペレ-タの仕事でした。
      キ-・ボ-ドとモニタ-でプログラム出来るようになったのは、パソコンが出現した頃でした。東芝からパソコンやワ-プロが発売されたのは確か1970年代の末頃で、一台500万程(大卒初任給の100倍位)しましたが、急激に価格が下落して行き、四五年経つと大抵の会社にパソコンが入っていました。しかし、大橋兄のように1985年に個人で持っていた人はそんなにいなかったと思います。大曲兄の1989年でもまだ何十万としたようですので、85年では一体幾らかかったのでしょうか。大橋兄こそ大先輩です。

      コメント by 寺山進 — 2012年1月16日 @ 15:08

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