原爆と原発/山崎映一@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
原爆の日を前にした昨日稲毛駅前を歩いていると原爆反対グループが原発廃止の署名活動を行っているのに出くわしたが,私は何か違和感のような物を感じた。
今日の原爆式典でも広島市長は福島原発の放射能汚染について言及し脱原発を目指すべきだと話された。それはそれでよいのであるが原爆と原発をこの様に同列に並べて議論する事に少なからず違和感を覚えるのは私だけであろうか。
福島原発事故による放射線汚染のような事が起こると世論は直ぐに原発廃止を唱え始める。しかしよく考えて見ると非難さるべきは原発そのものではなく原発の安全性確保のための信頼性設計を怠った事にあることは明らかである。現に福島原発の近くにある女川原発ではあの地震津波でも無事冷温停止させる事に成功している。なぜ福島原発だけがうまく行かなかったのであろうか。もし福島も冷温停止に成功する事が出来たとすればM9という巨大地震津波にあっても原発は絶対安全であるという事をもはや神話ではなく現実の事例として実証する絶好のチャンスであった筈である。その機会を逃してしまい逆に世論が背を向ける結果に終わった事は何とも残念な話である。
この様に安全性を確保した上で原発を当面の主要なエネルギー源とする事に私は賛成である。しかし使用済み燃料の問題が未解決であることを考えると将来何時までも頼る事は出来ず,将来のエネルギー政策として再生可能エネルギーを指向する事は必要と考えるし,現に私の家にも太陽光パネルを導入したのは4年も前の事である。ただ再生可能エネルギーに全面依存するためにはまだ多くの時間と費用を要する事も明らかでとても我々世代が生きている間には実現しそうもない。とすればそれまでは千年に一度の地震津波にも耐える絶対安全設計を施した原発に頼るしかないし,それは決して難しい事ではないと考える。
原子力保安院が解体されて原発規制庁になるという。原発を推進する部門とこれを規制する部門が同じ経産省にあるのは具合が悪いと言うのがその理由であるが,この理屈付けも納得が行かない。原発の健全な推進を真に望むなら自らその安全性を厳しくチェックする部門を内部に持つのはむしろ当然だと考えるからである。ただ今までの保安院は全くでたらめでチェック機能が全く働かぬばかりか世論操作をする事がその仕事であった。この機に原発安全性を厳しくチェックする部門として生まれ変わる事を期待したい。
2011年8月11日 記>級会消息
(1)フツーの人にとって今回の原発事故のキイワードは「放射能」、「ヒバク」など。
その点で原発と原爆が結びつくのはやむを得ない、というか至極当然なことだと思う。まして、被災者やその関係者の立場に立ってみれば、原因はどうであれ結果として放射能漏れによる重大災害が実際に起きて大きな被害を受けたのだから、怒りの対象を原発そのものに向けて「こんなもの消えて無くなればいい」と考えるようになるのも理解できる。
長崎市長の平和宣言『 「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのか』は、大変重い問いかけを我々に突きつけていると思う。
(2)原発を推進する部門と規制する部門は絶対に分けるべき。
「原発の健全な推進を真に望むなら自ら安全性を厳しくチェックする部門を内部に持つのは当然」であることは勿論だが、それだけでは不十分で全く違う立場、別の視点からチェックする部門が必要だと思う。
これまで同じ組織の中にあったこと自体が不思議なくらいで、これが今回の重大事故を招いた遠因の一つではないかと思うが、考え過ぎだろうか。
コメント by 大曲 恒雄 — 2011年8月11日 @ 17:39
私も山崎君と同様、原爆と原発を同列にしている事に関しては違和感を持った一人である。原爆はものを破壊し、人間を殺傷するために作られた兵器であり、原発は産業発展の資源であるエネルギーを作る装置である。斉藤嘉博さんが言われたように核は双刃の剣であり、原発の管理運営での対処に誤りがあったために放射能の漏洩にまで発展してしまったことである。この経験を有効に蓄積し、原発管理の一等国になってもらいたい。
皆が恐れているこの放射能に対する考え方も変更しなければならない事になりそうである。最近「日進報道」という出版社が「ラッキー博士の日本への贈り物 放射能を怖がるな」という図書を1,000円で出版した。ラッキー博士はアメリカ、ミズリー大学医学部生化学の名誉教授で、宇宙放射線環境内での安全性を追求した先生で、最近アメリカの医学雑誌に「電離放射線の生物学的効果―日本に贈る一視点」を寄稿した。この論文を解説付で日本語に訳したのが最近出版された上記の図書である。放射能には閾値があり、この値より大きいと害があり、低いと健康に有益である。この閾値は200ミリシーベルト/年であり、100ミリシーベルト/年が最も健康に良いとのことである。ラジウム温泉、ラドン温泉などはこの低放射線の効果で健康に良いとのことで、原発敷地外での現在問題にしている放射線量は反って健康に良いくらいであるとのことである。ラッキー博士は広島、長崎で被曝した生存者と発病の日本でのデータを基にしても閾値以下の被爆者の健康が一般人よい良いことをしめしたおり、現在の日本の放射線量に対する思い込みに支配されるなら日本経済は無用な経費に打ちのめされる事になろうとのことである。いずれにしても関心のある方には御一読をお勧めします。
コメント by 沢辺栄一 — 2011年8月12日 @ 21:43
原爆と原発が一緒にされているのは、困ったことですが、科学技術立国をめざしている日本の理科教育の成果(?)がこれだとすると、本当に悲しくなります。
第一次大戦のとき、毒ガスが使われて悲惨な結果を招きましたが、僕は学生時代に「チボー家の人々」という小説を読んで、はじめてそのことを知りました。その後、毒ガスは禁止されましたが、第二次大戦では、新顔の原爆が登場しました。原爆はそれまでなかった兵器ですから、国際条約で禁止されていなかったのは仕方ないことだったのでしょう。しかし、これから、原爆と水爆の禁止に成功したとしても、次には、とんでもない生物兵器などが登場する可能性があります。
そう考えると、個別兵器の禁止運動には限界がり、結局は、戦争や国際紛争の防止にこそ全力を注ぐべきだと思います。
実際、いったん開発された技術や科学的発見は、どんなに隠しても、どんなに強く禁止しても、世界に拡散して行くことは避けられないものです。そのよい例が、戦後における、原爆と水爆の製造技術の拡散です。
コメント by 武田充司 — 2011年8月14日 @ 10:28