• 最近の記事

  • Multi-Language

  • アナログとディジタル/寺山進@クラス1955

     「統一的なテーマでブログの長期連載をしてみよう」と思い立ったが、肝心のテーマが見つからない。悩んでいた


    時に大橋兄が「君のブログは話題が豊富で面白い」と誉めてくれた。持つべきものは友である。悩みは一気に雲散霧消した。吉田兼好法師の「徒然草」のように、その都度適当にテーマを選べば良いのだ。そこで早速今回のテーマを、前回の「ハイブリッド制御」の続きで「アナログとディジタル」とすることにした。

     最近「ハイブリッド」は、「ハイブリッド・カー」で広く知られるようになった。本来は生物学の専門用語であるこの言葉を、小生が知ったのはだいぶ昔の事になる。1970年頃だろうか、アナログとディジタル混合の「ハイブリッド・コンピユータ」が世に出た時である。之は基本的には「アナコン」だったので、殆ど普及せずに終わってしまった。しかし、「アナログ」や「ディジタル」という言葉自体はその後も使われ続けている。
     科学・技術の専門用語を使いたがる評論家がいるが、時に間違え時に拡張解釈する。昔の情景を回想するのに「その場面をフィードバックして・・」と云ったり、生命の躍動感を伝えるのに「エントロピーが満ち溢れ・・」と云ったりする。流石にこのような誤用は直ぐに消えてしまったけど、「ソフト」とか「アナログ」の寿命は長い。但し本来の意味からは大分離れて来て、「アナログ人間の自分は・・」とか「アナログ思考を大切に・・」とか云う。評論家だけでなく芸術家の分野にまで、「アナログ絵画制作」、「アナログ的造形感覚」とか「ディジタル・アート」などの言葉が頻出する。
     「ディジタル」の数理的、合理的、非人間的、冷たい、に対し「アナログ」は、感覚的、非合理的、人間的、暖かい、といったイメージで語られている。更に、コンピユータやI.T.機器を使うかどうかが、決定的な両者の分かれ目のようである。絵筆と絵の具を使った旧来の絵画は「アナログ」、コンピユータを駆使すると「ディジタル絵画制作」という訳である。

     東京大学工学部システム創成学科教授・宮田秀明先生が、【日経ビジネスオンラインNo.1104】の「短期開発プロジェクトではアナログ設計力が生きる」という評論で「アナログ設計とは、一つ二つの正しいコンセプトを持ち、構想力というか勘のような力で設計することである」と述べているのには仰天した。数値計算をベースに設計するのを「ディジタル設計」と云うらしい。文系理系両面に幅広い視野を持つ有望な評論家として、陰ながら注目していた先生なので「ブルータス、お前もか・・」と思った。この論文で主張されている趣旨自体は大賛成なだけに、尚更である。
     大体システム創成学とはどんな学問なのだろう。母校の悪口をいうのは不本意だが、訳の分からない学科名を付ける大学は二流三流だと思っていた。「土木工学科」の名前を最後まで残していたのは東大では無かったのか。土木の先生にもなかなかの人物がいたものである。建物はもちろん、橋や道路、堤防等の大型構造物に木材を有効活用して来た日本民族にとって、「Civil Engineering」を「土木工学」とは素晴らしい名訳だと思うからである。因みに現在東大工学部には16学科があるが、我々の学生時代から名前が残っているのは、機械、建築、応用化学の3学科だけである。しかしまあ、政治家や役人をちょろまかして、いや、大義名分を通して予算を確保する必要もあるのだろう。その為の学科名変更なら、止むを得ない。今やシステム創成学専門の宮田先生も、出自は昔風に分かり易く云うと「造船屋」である。小生が秘かに応援していた理由の一つでもある。

     「大砲屋」「水雷屋」「航空屋」など旧帝国海軍時代からの呼び名はもう今は流行らないのだろうか。我々の頃は新入社員が挨拶に行くと先ず、「事務屋」か「技術屋」かと聞かれたものである。「事務屋」はあまり専門化されず、精々「経理屋」くらいしか無かったが、「技術屋」は「機械屋」「電気屋」「土木屋」・・に始まって幾らでも細分化される。「造船屋」も「船?屋」「艤装屋」「熔接屋」・・ときりがない。外からだと全部「電話屋」に見える旧電電公社の「技術屋」も、中に入ると「交換屋」「伝送屋」「無線屋」「データ屋」・・となる。
     小生は晩年に或るソフト・ハウスに関係していた。この業界ではプログラマを得意とする言語で分類することが多いが、「コボル屋」とか「フオートラン屋」などは余り聞いたことが無い。どうも「・・・屋」は古めかしい表現で、新しい分野の若い人は使わないのだと思う。

     「閑話休題」、料理についても「アナログ」と「ディジタル」が考えられる。例えば、高機能C.P.U.内臓の電子レンジを使うのはディジタル・クッキングで、在来方式は差し詰めアナログ・クッキングになろう。但し小生の料理はアナログというより寧ろアナクロに近い。圧力釜は便利だと言われても、「自然の恵みで与えられた食材を、自然に存在しない高圧環境下にさらして、美味しくなる筈がない。煮豆は時間をかけてコトコトと弱火で煮るべきである」と固執する頑固者である。 
     しかし前回のブログで電子レンジを紹介した以上、ディジタル・クッキングが未経験では済まない。試してみたいが、いきなり高価な「ヘルシオ」を購入する訳にもいかない。そこでとりあえず一番安くて済む「焼き魚パック」を買ってきた。魚の切り身をパックに挟み電子レンジでチンする、即ちマイクロ波加熱するだけで良い。確かに焦げ目の付いた焼き魚が出来上がる。味も上々である。しかし、何かが物足りない。たとえ焦げ目や焼け具合が「まだら模様」でも、自分で焼いた魚はもっと美味しい筈である。魚は直火の上での網焼きに限る。料理はアナログでないと・・・。
     ここまで書いてきて、突然「アナログ」の持つ語感の素晴らしさに気が付いた。成程良い言葉である。言葉は生き物であり、教養ある文化人が広く使い出したら、それは完全な良い日本語という事になる。その意味で「アナログ」は、最早十二分に市民権を得ている。コンピユータでは「ディジタル」に完敗した「アナログ」だが、好感度の高いプラス・イメージの日本語として「ディジタル」を圧倒した。

     「アナログ」と云う言葉の使い方について、つむじ曲がりのいちゃもんを付ける積りで始めたこの一文も、年のせいかまたもや腰砕けに終わってしまった。
     「次回は是非、意地悪爺さんの本領発揮のブログにしたい」と、またまた実現困難なお約束をする羽目になったようである。

    5 Comments »
    1. 新年明けましておめでとう御座います。本年も何とぞ宜しくお願い申し上げます。
       早速ですが「船?屋」の「?」は、「殻」です。「読み」は「カク」、意味は「生物などのからだをおおっている堅いから」の事です。即ち「船殻」は「船舶の外殻構造物」になりますが、業界ではこれを「センコク」と呼び「センカク」とは云いません。
       小生が編集長に送った原稿は誤って「穀物」の「穀」になっていました。永年「センコク・セッケイ」だの「センコクヤ」と云ったり聞いたりしていたので、何となく見過ごしてしまったのです。何故こういう誤読をするようになったのか、今度専門家に聞いてみます。

      コメント by 寺山進 — 2011年1月1日 @ 09:21

    2. 周回遅れのコメントで済みません。昨年後半はいくつかの幹事役が重なって、いささか疲れたので、新年はのんびり過ごしました。
      新年早々に「アナログとデジタル」という壮大なテーマを目にして、突然脳味噌に活が入りました。アナログからデジタルへの移行期に散々苦労した我々の世代の方々は、ほろ苦くもあり懐かしくもある思い出が蘇ってくるでしょう。
      小生も、デジタル通信に配転になり、最初に従事したのが音声の非直線符号器・復号器の開発でした。アナログ信号とデジタル信号の相互変換から出発したので、現在のようなデジタル放送のPRを見ていると、世の中すべてデジタルでないと時代遅れのような錯覚に襲われます。更に、人間をアナログとデジタルに分類したり、芸術の世界でも道具によりアナログとデジタルに分類するのには呆れてしまいます。印象派の時代でも、立派な点描画を描いている画家もいます。
      デジタル化の悪用の最たるものは、勤務評定であり、〇Xの試験問題であると思います。物事の前提条件を明確にしないと、本質を知ることはできません。選挙の一票の格差を是正し、投票率を向上しないと、民主主義の崩壊をもたらします。電話による世論調査も、どのように行われているのか知りませんが、回答率を見るとランダムではないと思います。
      デジタル化の精度を向上すればアナログに近づきますし、デジタル信号も伝送路で波形が歪んだり、雑音が混入するとアナログ信号のように見えます。情報の本質は何であるかを考えると、放送技術の進歩に比べ、現在のTV番組の構成にはうんざりです。

      コメント by 大橋康隆 — 2011年1月5日 @ 21:47

    3. アナログからディジタルに変わる転換期を生きた技術屋として、大橋君のコメントには共感を覚え、一言書きたくなりました。僕が原子炉の空間依存動特性解析の新しい手法を考えついて、解析を進めていた頃には、東海村の原子力研究所には、PACE(?)とか言う、最新鋭のアナログ計算機があって、それを使わせてもらって、動特性解析をやったのですが、コンピュータに組み込まれている真空管の数があまりにも多いので、確率論的に、何時の時点でも、その中の1つや2つは不具合になるのです。従って、調整に殆どの時間を費やして、1日24時間のうちで、コンピュターがご機嫌よく動いてくれるのは、数十分とか、数分程度でした。したがって、日本唯一の輸入品の(?)最高性能のアナログ計算機を使って解析する作業の実態は、あの計算機を調整する作業が99%で、実際の解析は、ほんの僅かの時間で済んでしまいました。当時は、それでも、よき時代で、我々も、計算機室に泊りがけで、夜中も、平気で仕事をさせてもらいました。そうなると、アナコム(懐かしい言葉ですが、アナログ・コンピュータの短縮語で、当時は、そう言っていました)が、自分の飼い犬のような存在に感じられ、「おい、ご機嫌はどうだい?もう少しの辛抱だから頑張れよ!」などと、夜中に、計算機に話かけながら、ひやひやしながら、計算機を使ったものです。それは、なんとも人間的な雰囲気で、とても懐かしい思い出です。
      しかし、それから暫くして、IBMの650というディジタル・コンピュータが原研に導入され、それを使って解析できるようになりました。そうしたら、アナログ計算機の調整という苦しみの代わりに、プログラムを書くことと、パンチカードを打つことという、苦行が現れました。
      どちらも、大変でしたが、計算結果を見るときの楽しみや、そこから物理的洞察や推論を楽しむという点では、アナログの魅力は格別でした。しかし、今や、ディジタル技術は、マン・マシン・インターフェイスを巧みに処理してくれるので、解析結果を、アナログのように表示して、見せてくれるようですから、こうした感想も昔語りとなってしまったのでしょう。

      コメント by 武田充司 — 2011年1月8日 @ 22:19

    4. 寺山様 1周遅れの(1週遅れの)コメントになりましたが、良いテーマ(すごいテーマ)を選んだ事に敬意を示すと同時に、先を楽しみにしています。              
       私も新規事業の一環として、昭和50年代にデジタル計算機を応用したパターン認識(人工知能の一分野)技術の開発製品化に従事したことがありました。これはまさに人間がアナログ的に考えていたことを、デジタル化して計算機で処理するということです。このため、大脳生理学の先駆者であります、時実利彦先生の書かれました啓蒙書を読んで大脳新皮質の不思議さに驚きました。神経細胞(約140億個)は一つ一つはデジタルですが、それをシナプスで組み合わせて(単純計算ではとてつもない大きな数字になります。)、アナログのような機能になっていることです。
       大橋さんのコメントに関連して非常に貴重な経験をしました。昭和60年代に大手の製鉄会社に新年のご挨拶に伺いましたときお会いした代表取締役会長にご挨拶の後、「会長さんのお名前が、時実先生と連名で脳学会の論文に出ていますが、法学部のあと医学部へ学士入学されたんですか」と聞きましたら、「いやいやこの会社に入って人事部に配属されて後、人間を見るためには人間の人間らしさを表す脳を知らなければいけない。ということで、時実先生のところへ、国内留学させられたんですよ。」という返事が返ってきまして、驚くと同時にここまで考えているのかと深く感銘を受けました。
       最期に蛇足を一つ。我々年をとって物忘れが激しくなったといいます。しかし脳科学から言いますと、一度脳に記憶されたものは決して消えることがないと言われています。ただ呼び出す機能が下がっただけであるとのことです。
       呼び出す機能を回復する薬が一日も早く出るのを心待ちにしています。
       

      コメント by 新田 義雄 — 2011年1月10日 @ 12:09

    5. 二年ほど前の小生の投稿に武田兄がコメントを下さり、タイガー計算器やモンローの電動計算器を使った経験を披露されました。小生は他の級友とは一寸違った業界に入ったものですから、余り共通の経験が無いのかなと思っていたのですが、英語での大橋兄や数値計算での武田兄など同じような苦労をしてきたのかと一寸嬉しくなっていました。
      その上今回「アナコン」での思い出を聞いて尚更です。小生の方は対象がガス・タービンとその油圧制御系で、1960年頃にその動特性の解析を行った事があります。武田兄同様、真空管式演算増幅器のドリフト除去、即ちゼロ出力の調整に追われました。一つ済ませると別の方がずれ始める「モグラ叩き」の様な作業です。計算より調整の方が遥かに時間と神経を使いました。気が短くなって来た今ごろ振り返ってみると、良く辛抱出来たものだと思います。
      此処まで書いて来た時に、新田兄からコメントを頂きました。脳科学は難しくて小生にはよく分からないのですが、140億個の脳細胞は、その膨大な組み合わせの数によって機能がディジタルからアナログ的なものに変化する由。この様ないわば「量から質への転換」(マルクス主義の用語ですが・・)は種々な場合に見られるのではないかと思っています。例えば、変化無限といわれる囲碁の局面の総数は10の220乗だそうです。よく天文学的数字と表現されますが、宇宙の果ての100億光年でも10の26乗メートルにしか過ぎません。
      何れにしても、こんな大きな数字は3次元世界の人間の枠をはみ出しているのではないでしょうか。質への転換というより次元の転換です。こう考えると、人間の脳は素晴らしいものである事が良く分かります。

      コメント by 寺山進 — 2011年1月10日 @ 20:00

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。