大越孝敬君を偲ぶ=十七回忌に当たって=/寺山進@クラス1955
記>級会消息 (2010年度, class1955, 消息)
森山君の投稿「大越君の思い出」に対して大橋君がコメントを寄せられ、追悼集「大越孝敬先生の思い出」に言及されている。
私も書庫の中から捜し出して、久し振りに読み返してみた。何故か忘れられぬ同君との僅かな触れ合いを思い浮かべることになった。
私と大越君との間にどんな付き合いがあったのだろうと不思議に思う級友も居るかもしれない。事実、学生時代には殆ど二人だけになった事は無いし、卒業後も尚更の事であった。仕事の分野も違えば、レベルも違うので当然と云えば当然なのである。彼の素晴らしい人格、能力、実績等の詳細は「追悼集」で初めて知ったことの方が遥かに多い。
所が何の偶然か、同窓会では身近に話をする機会が二三度生じた。殆ど同時期に米国に滞在していた経験や、長男の年令がほぼ同じなので子育てなどで話が弾んだ。息子の反抗期には多少深刻な話題にもなったが、大越家の場合は父親が嘆く程の事では無く、寧ろ可愛い位に思われた。「東大教授が続く家系に生まれた、たった一人の男の子の受けるプレッシャーは、想像するに余りがある。俺だったら、とっくにグレテいるよ」と云うと、彼は「ウーン、そうかなあ・・」と頭を抱えて考え込んでしまったので「勝手な事を云い過ぎたか」と慌てた事もある。
結局二人だけで数時間を過ごしたのは1991年(平成3年)の初頭の頃で、これが最初で最後になってしまった。当時私は会社の新規事業開発担当を命じられ、悪戦苦闘していた。たまたま「光コンピユータ」に関する案件があったので、思い切って大越君に電話してみた。「一度訪ねて来ないか」と誘われたので、駒場の旧航研を訪問すると所長室のような部屋に通された。正式にはどういう立場だったのかな、と思って「追悼集」の年譜の頁を調べて見たが、この前後二三年の組織名や役職が良く判らない。けれども、間違いなく多忙だったに違いない同君の貴重な時間を、つまらないことに費やしてしまったものだと、今になって後悔している。
しかし彼は、私が持参した資料を一生懸命に読んでくれ、一緒になって考えてくれた。切り上げようとしても「まだいいではないか」と引き留めてくれる。その上、帰り際には見送ってくれるという。階段を下り建物の入り口迄来ると、彼は突然直立不動の姿勢を取り「ご成功を祈る」と低いが力強い声で云って、じっと私の目をみつめた。門の方角に三十メートルも歩いただろうか、何気なくふと振り返ってみると、彼はまだそのままの姿勢で私を見ていた。
「虫が知らせる」という言葉がある。「人間の記憶はあいまいで、実際には起きていない事でも記憶として定着してしまう事が良くある」と専門家はいう。「虫の知らせ」も大抵の場合は、後になってからそう思うだけなのである。しかしこの時は、間違いなく私に「虫が知らせてくれた」。彼としては「出来の悪い同級生が、困難な仕事を前にして不安な心理状態にある。激励しなければ・・」と思ってくれたのだろう。しかし私には、別れ際の彼の言動が非常に気になった。或いはすでに彼は、何らかの体調の異変を感じていたのかもしれない。
「追悼集」で夫人は、この年の九月に胃癌が見つかったと書いておられる。
1994年の秋から冬にかけて、カナダとの間を何回も往復する仕事があり、彼の逝去の報は後で知ったので葬儀に参列出来なかった。今「追悼集」を読み返していて気がついたのだが、今年の11月4日は17回忌の命日だった。森山君の投稿や大曲、大橋両君のコメントは、図らずも大越君への17回忌の追悼になった。私も追悼の一文を捧げたく思う。
改めて大越孝敬君のご冥福をお祈り申し上げます。
2010年12月6日 記>級会消息
卒業55年会後に、森山君が「大越君の思い出」を投稿され、今回寺山君が「大越孝敬君を偲ぶ」で17回忌の追悼文を投稿された。振り返って見ると、これまで「大越君の思い出」が「でんきけい1955」に投稿されていないのが不思議な気がする。多分、追悼集「大越孝敬先生の思い出」に10名以上の同期生が寄稿しているので、重複してはと躊躇した結果だと思う。
大越君と寺山君と私に共通した思い出があるので、追悼集と重複するが、紹介する。昭和40年に広島大学で電気通信学会が開催された。その後に、当時助教授であった大越、秋山両君が、三井造船に勤務していた寺山君の玉野造船所を訪問することになっていた。途中、私の郷里である倉敷市に立ち寄るというので大原美術館や鷲羽山を案内した。偶々、大原美術館では東京から訪れていた二人の女性と一緒になり、大越君が「大橋君はまだ独身です」と熱心にPRされ恐縮した。
何事にも積極的で真摯な姿勢が改めて思い出され、同期会で再会出来ないのが残念でならない。
コメント by 大橋康隆 — 2010年12月7日 @ 22:49
大越、秋山両先生がお見えになった記憶はあります。
会社のゲスト・ハウスでの宿泊の準備をしていたのですが、予定が詰まっていると云う事で慌ただしく帰京されました。
少人数での懇話会の様な形でお話を伺ったのですが、どんな内容だったかは全く覚えていません。45年も前の話です。
コメント by 寺山進 — 2010年12月14日 @ 16:45