ハイブリッド制御/寺山進
記>級会消息 (2010年度, class1955, 消息)
8月初旬、日本に於ける電子式アナログ・コンピュータの草分け的存在である黒川一夫さんから、
前回の小生のブログ「マンハッタン地区」をお読みになったという、何年ぶりかのお電話を頂いた。「アナログ・コンピュータ自体は確かに、もう影も形も無いかもしれない。しかしアナログ技術そのものは、デジタル・システムの中に隠れた形で益々重要度を増して来ている」というご指摘を受けた。全くおっしゃる通りである。「アナログはすべて博物館行き」みたいな誤解を与えかねない、小生の舌足らずな記述のお詫びを申し上げたい。
黒川さんは又最近のトヨタ問題も含め、制御システムのデジタル一辺倒について疑問を呈された。東海道新幹線の制御では0.5重のアナログを取り入れた、いわば2.5重系の安全システムを採用していたが、山陽新幹線では3重系のすべてをデジタルにしている。3重にするなら少なくとも1重は異質の原理に基づくもの、この場合ではアナログを最終のバックアップにすべきだという持論を展開された。
即ち今後の制御系はすべからく、デジタル・アナログ混在のハイブリッドだという訳である。「出来たらこの考えを取りまとめてみたい」と云われるので「是非そうされるべきである。黒川さん以外に出来る人がいない」と強くお勧めしておいた。ご本人は「十年もあれば纏まるだろう」と八十八歳にして意気軒高である。昭和二十八年卒の先輩だがそれまでに一寸寄り道をしている。一兵卒での軍隊経験の後東大に入学したという珍しい経歴の持ち主である。「未だ七十代なのに、ぶらぶら遊んでいるのが一杯いる。そういう連中に手伝わせる積りだから、君にも宜しく頼むよ」と云われた。「技術の方はあまり頼りになりませんが、出来るだけの事はします」と返事したが、場合によっては級友諸兄のお力をお借りしたく今からお願いしておきたい。
何でもデジタル、それもソフト頼りの制御系の問題点では小生も笑い話のような経験がある。
もう大分以前の事だが、買ったばかりの全自動の洗濯機が故障した。「洗剤のふたを閉めろ」という表示が出て、その後全くシークエンスが進まない。家内が合成洗剤の代わりに粘度の強い粉石鹸を使う為、ふた開閉信号を出すリミット・スィッチの接点が粘着しているようだ。接点は函体の中に組み込まれ地獄になっている。サンド・ペーパーで一寸こするか、或いは信号を無視するようにシークエンスを変えれば良いのであって、昔のリレー回路なら今の小生でもすぐ直せる。
どうすれば良いのかメーカーに問い合わせてもさっぱり要領を得ない。小生自身が内心では疑問に思っている「地球に優しい」というスローガンを持ち出し「貴社は粉石鹸を否定するのか」と意地悪を云って困らせた。最後は設計の係長が出てきた。洗濯機本体に関しては実に詳しいが「シークエンスはソフト屋に外注しているので良く分からない」と白状したので、最初は仰天したがすぐに「十分有り得る事だ」と納得した。ROMに焼き付けられたソフトのロジックは、HardかつUntouchableで誰にも分からない。ソフトを組んだ人間が行方不明になってしまう事すら良くある話である。接点の粘着以外はほぼ完全で、新品の洗濯機をつぶすのは実に勿体ないが、現実にはそう成りかねない様なメーカーの対応であった。
結局小生が押ボタンの組み合わせを種々試してみた末に解決した。ある条件でしかも「洗い」だけの工程なら、インターロックが外れてシークエンスが進む。この後もう一度残りの「ゆすぎ」「脱水」等の工程を自動にする、つまり全自動に比し途中でもう一度スィッチを押す手間をかけるだけで洗濯機が使えるのである。何となく非論理的な制御ロジックであり何故そうなるのかは分からないが、とにかくそれ以後十五年以上に亘り何の故障も無く酷使に耐えている。
洗濯機本体の機能や信頼性の素晴らしさと、実際の操作に重要な制御系や表示系のお粗末さが、誠に対照的な製品である。しかし他の家電類でもこの様な例は幾らでも有るのではないか。特に調理用家電製品、電子レンジなどは一寸調べるだけで、次のブログに投稿出来る格好の対象になりそうだ。
平成22年8月20日
2010年9月1日 記>級会消息
日頃感じていた疑問について、寺山君のこの記事はとても参考になりました。電子だのディジタルだのには素人の僕も、最近のディジタル化万能の技術傾向には不安を感じていましたが、このブログを読んで、自分の感じていることが、それほど的外れでないことを知りました。最近の事故やトラブルの発生形態を見ていると、ディジタル化した社会インフラの「Vulnerability」を感じます。
コメント by 武田充司 — 2010年9月2日 @ 14:45
異常な暑さが延々と続いている期間中の本ブログへの唯一のコメントを、小生の投稿にお寄せ下さった武田兄に心から御礼申し上げます。
新幹線や原発の炉まわり等で致命的な事故も無く何とかやってこれたのは、安全システムだけではなく現場の最先端にいる職人的技術屋の、Preventive Maintenance等に於ける地道な努力によるものと思っています。
本文で述べた様な家電の埋め込みソフトならまだ笑い話で済みますが、公共のシステム例えば銀行の端末になるとそうは行きません。最近では流石に「一字訂正」が出来ますが、ついこの間までは数字を一つ打ち間違えると最初の画面に戻る必要がありました。振込を一件済ますのが至難の業でした。
今でも随分変なのがあります。都銀からゆうちょ銀行に振り込んでみて下さい。通常のビジネス感覚を持った人間には想像も出来ない事態に直面します。振込先の支店が出せません。「確認ボタンを押せ」だの「紙幣を受け取れ」だの普段は矢継ぎ早にうるさいスピーカーが、肝心の時には何にも言いません。コメントが一言あればすぐに解決するのです。
通帳の取り換え操作中に「最初からやり直して下さい」と何度も表示されるので、「何処で間違ったのかな、ボケが始まったか?」と係員を呼んだら「これは窓口に行って下さい」と横柄に云われました。どうでもいい事には無闇やたらに鄭重な銀行ですが、こういう時には何故か謝りません。コンピュータのする事は謝罪の対象外です。「太陽が時々翳るという現象に、何故銀行が謝らなければならないの?」といった感じです。
コメント by 寺山進 — 2010年9月10日 @ 20:34
寺山君の言うような例は、僕などは頻繁に経験しています。しかし、これは、自分が途中からディジタル文化の世の中に入ったせいで、仕方のないハンディキャップかと諦めていましたが、最近、気付いたことは、これだけ便利で複雑に発達したディジタル文化(これは、ディジタルに限らず、最近の先端的科学と技術を駆使した各種社会システム)を使いこなすことが出来る人と、そうでない人との間には、「ディジタル格差」みたいなものが生まれるはずだと。
いまの子供たちは、生まれた時から、この特異な文化の中で育っているから、そうした格差は生じないという説もあると思うのですが、果たしてそうか?最近の親たちの子供の教育に対する過熱ぶりは、こうした高度化社会の中で大人に成った子供が、敗者になるか、その受益者になるかの岐路が子供時代の教育にあることに漠然と気付いているからではないかと思うのです。
昔は、本当にのんびりしていてよかった。少々頭が悪くても、算数が出来なくても、世の中が単純だから、真面目に、しこしこやって行ける人間なら、なんとか、それなりに生きて行けた。しかし、いまや、そんな呑気なことを言っている人間は、この高度化された金ぴかな文明社会の中に居場所を見つけることも出来なくなりそう?
僕は、30年ほど前に、原子力発電所のヒューマン・エラーによる事故を減らすために、人間工学やエルゴノミックスの勉強をした経験があり、それを生かして、数年間、原子力発電所の所長として、ヒューマン・エラー防止の実践活動をやってみたのですが、そのときの経験から、ディジタル化されたシステムと人間(運転員)との相性(いわゆる、マン・マシン・インターフェイス)は、あまり良くないと思っています。それだからこそ、その後、現在に至るまで、この世の中で、人間・機械系のインターフェイス問題が、安全上の重大関心事となり続けているのだと思うのです。
最近よく聞く、アクセルとブレーキを踏み間違えて、という自動車事故について、人間工学とヒューマン・エラーの観点から、自動車メーカーは、もっとよく考えるべきではないかと思うのですが、専門家はどう考えているのでしょうか。
コメント by 武田充司 — 2010年9月12日 @ 12:13