オペラと歌舞伎/斎藤嘉博@クラス1955
記>級会消息 (2010年度, class1955, 消息)
この四月、歌舞伎座は改修のために閉演となってお別れ公演が行なわれ、その舞台のいくつかがハイビジョンで放映されました。
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$00A0歌舞伎座(昨年12月撮影) |
私も昔、両親に連れられてめ組の喧嘩、娘道成寺、勧進帳、鏡獅子といった芝居を見た記憶があります。しかしその後はテンポの遅い、ご主人のためには子供の首を切るといった現代離れした芝居の設定には興味がもてないまま自分で木戸をくぐる気にはなりませんでした。
オペラを見るついでにと今回のテレビ番組、稲瀬川、助六などを覗いてみたら、浜松屋の場での話のからくり、揚巻と意休のやりとりなどイヤその面白いこと。その面白さの最大の焦点は外国語で歌われるオペラに比べて会話がそのまま分かるということでした。芝居の台詞にはその裏に沢山のイメージが詰まっています。それを字幕で見ながら追ったとき、筋は理解できてもその背後に含まれた深い意味にはとても至りません。
例えば、弁天小僧の「知らザア言って聞かせやしょう」を英語の字幕にしたとすれば「I will tell you as you might never know」。字幕の専門家はもっとスマートにほん訳するのでしょうが、どう訳しても表面的な言葉の転換で、「知らザア言って聞かせやしょう」の言葉の裏にあるヤクザの世界を彷彿とさせることは難しいでしょう。「この有名な俺を知らんのかい」といった気持と次郎長や忠治の世界を知ったうえでの理解とはそこに雲泥の差があると思うのです。さらに「浜の真砂と五右衛門が……」ともなればとても外国語では。言葉ばかりではありません。ちょっとした所作にしても舞台の構成にしても、例えば浜松屋の番頭、丁稚のしぐさ。江戸絵巻(熈代勝覧など)で見た日本橋の三井越後屋の様子を知っていれば、舞台に置かれた呉服屋の店だけでなくその周辺の街の様子までイメージすることができるのです。
永山さんは“オペラと歌舞伎”(丸善ライブラリー)にその両者を比較して非常に類似点が多い旨を彼一流の筆致で書いています。その発生はほぼ1600年、源流はそれぞれギリシャ悲劇と能、カストラートの出現と女形、そして貴族の遊びから大衆の娯楽への変遷など。ただこの頃のオペラは斬新なという売りで妙な、私には理解しにくい演出が観られますが、歌舞伎は昔ながらの型を守っていて安心して見ることが出来るのも嬉しい点なのです。
オペラでは音楽が大きな役割を果たすとは言えやはり芝居。外国語に表現される機微は私には分からないままですし、とくにワーグナーのオペラを宗教的な深まりなしに聞いてもなかなか中世の騎士にまつわる聖杯物語のロマンは分かっていないのだと思うのです。かつてこのブログでも翻訳の論争がありましたが、母国語というのはホントニありがたい。つまり歌舞伎を見てはじめてオペラはその半分も理解していないのだなと悟ったのでした。
もっとも日本のことですら廓の世界はまだ霞のむこう。機会はあったのですから揚巻は無理にしても一度は吉原に行っておけばよかったと今から悔やんでもせんないことですが、過去80年の長い間、何を見て生きていたのだろうかといまさら無智を知らされるのでした。オペラと歌舞伎の両刀遣いでまた忙しくなりそうです。
2010年9月1日 記>級会消息