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  • マンハッタン地区/寺山進@クラス1955

     戦時中に「マッチ箱位の爆弾で敵の第58機動部隊を殲滅する研究をしている。日本は必ず勝つ」と云っている大人がいた。

     必勝を信じていた軍国少年でも「一体どういう経過を辿って勝つのかな」位の疑問は生じ始めた時期だったが、爆弾の方は全くあり得ないと思った。機械科の故富塚教授は著書の中で「戦前から専門家の間で話題には成っていて、田中館愛橘先生がしきりにマッチ箱をふりかざす」とか「仁科芳雄先生も否定派。菊池正士先生は今大戦中に完成したら首をやると云った」などの話が出てくる。結局軍国少年の思いとは逆に、その爆弾で日本は降参した。
     1956年秋、原子力船調査会の仕事に参画した機会に、原子爆弾開発という一大プロジェクトを成功させた米国の底力が知りたくなって関連の文献を読み始めた。「マンハッタン地区」という名称が出てくる。何故そう呼ぶのだろうと疑問を持ったがそのままになっていた。

     最近は “Wikipedia” など便利な調査方法があるが、注意しないと時に間違いまで孫引きしてしまう。「マンハッタン地区」も「機密事項なので暗号のコード名みたいなもの」というのがあった。尤もらしいが実際は一寸違う。「本質的なものではないから気にするな」というのもある。「大きなお世話だ、そんなことは50年以上も前から判っている!」と文句を付けたくなる。
     山田教授の著書は非常に良く書かれていて、他の英語文献は殆ど読む必要が無いと思はれる位である。しかし「地区」の意味を完全に掴みきっていないので「マンハッタン地区」の語句が出て来る時の記述に、やや戸惑いが見えるように思はれる。「マンハッタン」の理由も「コロンビア大学があるから、とも考えられるがはっきりしない」と歯切れが悪い。ただし、次に挙げる資料やGoogle以前の執筆なので止むを得ない。

     インターネットの検索機能は素晴らしい。原典に直接アプローチ出来る。有用なのが二つ出てきた。
     一つは日本の国会図書館のマイクロフイルム資料にあった、“Manhattan Engineer District History” 「日本語仮訳 マンハッタン工兵管区史」と題する、いわば米陸軍工兵隊の戦闘記録である。要約がパソコン上で読めるので之を更に要約してみよう。
     『DSM(Development of Substitute Materials, 代替材料開発)管区がManhattan Engineer District と改名して1942.8.13に発足した。DSMの名称は他人の好奇心を刺激し、好ましくないのでMED に変えた。これは原子爆弾プロジェクトに係る研究・開発、実験、製造等の管理を所掌した。管区は地理的な区域ではなく、原爆開発計画の指揮という特別な任務の管轄領域のことで、マンハッタンの名称は同管区の本部が一時ニューヨークに置かれた為である。』
     つまり「マンハッタン地区」は正式には「マンハッタン工兵管区」であり、原爆開発計画の指揮・管理を任務とする米陸軍工兵隊の一部署及びその職務管掌範囲のことである。原爆開発計画は後に「マンハッタン計画」と呼ばれるようになるが、当初は計画そのものを「マンハッタン地区」とも呼んでいた為、特に日本では混乱が生じた。

     もう一つの資料は、”U.S. Department of Energy “ が出している 公式文書の“The Manhattan Project” である。同じお役所でも日本とは大違いで、要約だけ読みたい人、一部または全部を詳しく調べたい人、それぞれに向けて実に懇切丁寧なリンクが張ってある。
     詳細は日米両政府の原典や山田氏の著書に譲るとして、小生が特に留意した二人のキーパーソンについてだけ述べてみたい。

     原爆開発計画の秘密を保持しつつ、ウラン濃縮工場などの建設や運営等の大工事を進める為には、陸軍工兵隊の介入が絶対条件となって来た。既に1941.10.9にはPresident F. Roosevelt の承認は得ていた。之に基づき1942年夏に Colonel J. C. MarshallがDSMのヘッドに任命され、Syracuse Engineer District からNew York へ転勤してきた。どうも当時の米陸軍工兵隊は部署名に「地区」とつける内規でもあったのだろうか。8.13.にはManhattan Engineer Districtとして新発足した。
     ところがMarshall 大佐の仕事の進め方は、必ずしもこの重要な時期に於ける職務基準に適合していなかったらしい。9.17には早くも人事交代が行はれ、Colonel Leslie R. Groves が将軍職に昇進してMED のヘッドに就任した。Groves将軍は「ナチス・ドイツよりも絶対に早く原爆を完成させるのだ」という明確な目的意識を持ち、優れた管理能力を発揮してプロジェクトを推進した。あまり知られていないけど、「原爆開発の成功」に対する将軍の貢献度は非常に大きいと思う。我々にとっては、誠に不愉快かつ嫌悪すべき「成功」ではあるのだが・・

    PRESIDENT NIXON AND THE "ATOMIC PIONEERS"
    This photograph was taken during an "Atomic Pioneers" ceremony held at the White House, February 27, 1970.
    Manhattan.jpg
    Left to right: Glenn T. Seaborg, Richard M. Nixon, Leslie R. Groves, Vannevar Bush, and James B. Conant.
    The photograph was taken by Ed Westcott
    From :  “The Manhattan Project“  by  “U.S. Department of Energy”

     もう一人見逃せないのは、Dr. Vannevar Bush である。大統領のもとで科学研究開発庁( Office of Scientific Research and Development )長官として辣腕を振るった。詳細は名和小太郎氏の著書も併せ参照願いたい。ここでは、著書には触れられていないが、小生が気になった点を一つ挙げておきたい。
     MED は陸軍の組織であるから人事権は当然陸軍長官にある。しかしBush長官は軍の人事に介入し、軍幹部と計らって Marshall大佐からGroves将軍へと原爆開発の責任者を交代させた。これがプロジェクトの成功、日本にとっては「無条件降伏」への大きな伏線となるのである。
     丁度この頃海軍では、William F. Halsey 提督からRaymond A. Spruance 提督 へ、機動部隊司令長官が交代した。これがMidway 海戦の大勝利、日本人にとっては「どうしても諦めきれない敗北」につながる伏線となった。
     責任者の急な人事交代は、その理由が両者で全く異なってはいるが、太平洋戦争の転機及び最終段階での決定打という二つの歴史的事件に共通し、結果を左右する重要な出来事となった。
     アメリカ流適材適所人事の成功例として「ミッドウエイ」は、思慮の浅い評論家が軽々に日本流と対比して引用することが多い。しかしアメリカ流を持ち上げるにしても「マンハッタン」の方が遥かに好例である。 Marshall 大佐も引き続きMED に留まり、その慎重な性格は全体の意思決定に重要な役割を果たした、と公式文書は述べている。

     名和氏の著書ではBush博士 を紹介して「初期アナログ・コンピユータの開発者として、技術史好きの人にはお馴染みだろう」と述べておられる。しかし小生の様にアナコンをいじった経験もあり、微分解析機の開発者としてBush博士 の名前には覚えのある人間も生きている。我々の二年上の先輩であり、日本の電子式アナログ・コンピュータの草分けでもある黒川一夫博士もご健在だ。技術史の世界に入れてしまうにはやや早いとも思うのだが、アナコン自体は確かにもう影も形も無い。しかし、技術の進化の方向が一寸違っていたら黒川さんも文化勲章だったかもしれない。
     パラメトロンの後藤英一博士とお付き合いしたことがある。昭和55年頃だったと思うのだが、若い人はもう何も知らなかった。「世が世ならノーベル賞の先生なのだから鄭重に応対しろ」と部下に言った記憶が有る。   メモリーの主流にならなかった点では変わらないのに、トンネル・ダイオードの江崎玲於奈博士の方はノーベル受賞者になった。どうしてなのだろうか。

    参考文献
     ●富塚清:   「ある科学者の戦中日記」    中公新書421 1976年
     ●山田克哉:  「原子爆弾 その理論と歴史」 講談社ブルーバックスB-1128  1996年
     ●名和小太郎:「科学書乱読術」           朝日選書598 1998年

    1件のコメント »
    1. 寺山様
       貴兄の調査、探求の情熱が未だに衰えを見せないで、硬い文献を読み、考えをまとめていることに敬意を表します。
       早くコメントを書きたかったんですが、私のは、前に上っ面だけを調べたことがあり、したがって、自信のあるコメントでは無いので、このようにピントの外れた時期になりました。
       私も小学生のとき、マッチ箱の大きさで戦艦一隻を吹っ飛ばす爆弾があると言う話を聴いたことがありました。
       確かに日本でも、1941年始めに、海軍の技術調査団がドイツの技術を調査するための訪独しましたが、その中に、日本のレーダー開発の中心だった海軍技術研究所の伊藤大佐(電気科の先輩です。)が、ドイツの高射砲と結びついたレーダーWuertzburgの調査の傍ら、原子爆弾の開発に強く刺激され、帰国後早々、仁科博士他主な原子物理学者が集められ、何回か協議した結果、「彼我共に今次大戦中には原子爆弾の開発はできない。」との結論を出して調査を打ち切ったようです。
       アメリカでは、ドイツに先を越されたら大変なことになると言う危機感から全勢力を集中して開発を推進したようです。
       貴兄が指摘しましたように、ただ単に技術を集中しただけではなく、組織も含めて最善になるように進めたようですね。
       私が感心しているのは日本の悲劇になり残念ですが、純技術的に見ると、この短時間に2種類の原爆を開発したことです。
       広島型は、原料U235の製造に高度技術が必要ではあるが、爆発させるのは簡単であり、一方、長崎型は、原料Pu239の製造は容易ではあるが、爆発のさせ方(爆縮)が難しい。この2種類を短時間の間に完成させ、ニューメキシコの砂漠で長崎型のテストを行い、広島は、ぶっつけ本番だったようです。
       トンネルダイオードとパラメトロンの差について、私も少し考えたことがあります。
       両者は共に昭和30年代に開発されましたが、長くなりますので、結論から言いますと、共に、半導体、トランジスタの開発が十分でないときの期間を埋めたような役を果たした結果になりました。違いは、トンネルダイオードの発表で、かの有名なショックレイ博士が大変高く評価し、その後江崎さんは、すぐにIBMワトソン研究所に移って研究を続けました。また、半導体の裾野の広さが、磁気に比べると格段に大きく、これらがノーベル賞に繋がったのかな思っています。
       いずれにしましても、貴兄の探究心に敬意を表しながら、駄文を書かせてもらいました。新田

      コメント by 新田義雄 — 2010年6月21日 @ 11:59

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