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  • ホクレア号/斎藤嘉博@クラス1955

      おなじみのルーシーと背中合わせのところに、長さ6メートル余り、二枚の帆を立てたカタマラン船の模型があります。

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        ホクレア号

    化石や骨の展示の中で一見場違いなように見えるのですが、三千年の昔南太平洋で人々が島から島への移動に使ったであろうと想定される船なのです。太平洋の中に点在する島々に人々はどのような移動手段を持って定着をし、交通をしていたのでしょうか。ポリネシア人の起源、ヒトの拡散の様子を何らかの形で立証したいと、1975年、アメリカの建国200年を記念して始められたのがこのホクレア号建造の事業でした。

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        コンティキ号

    実はそれ以前にノルウェーの人類学者ヘイエルダーが南米のインカ文明とポリネシア文明に類似点が多いことに着目して、1947年に古代の絵などを参照しながらバルサ材を使ったカヌーを建造していました。そしてペルーからポリネシアまでの航海を試みていたのです。この舟は赤道海流にのって西進し、タヒチの近くまでの航海を終了して民族移動についての一つの証を作りました。コンティキ号と名づけられたホクレア号よりはずっとお粗末なこのカヌーは今オスロー市の郊外、ビグドー地区のコンティキ号博物館に展示されています。
      
      ホクレアとはハワイ語で“幸せの星”とのことで建造の翌年ハワイからタヒチへの航海をし、その後何回か太平洋での航海を重ねて、その昔こうしたカヌーが海上の交通に大きな役割を果たしていたのであろうということを実証してきました。2007年には沖縄経由で横浜にも来航しましたのでご存知のかたもおられるでしょう。古代には石や貝を使ってこの種のカヌーを建造したと想像されていますが、もちろん昔は無線もGPSも無しの航海。そこに必要なものは人間の英知でした。ハワイ州の資料によれば、「星、月、太陽の位置から方角と緯度を、それが見えないときには波と風から、また落陽の雲の形と色から天候を、海鳥の姿から島の位置を。海図、コンパス、時計といった航海計器のガイドを使わずに知覚出来るすべてを利用して現在地を把握した」とあります。鳥の様子で島の位置をみつけるというのが気に入りました。こうしたギリギリの状況の下ではチーフの統率力が極めて大切な役割を果たします。実際の舟は全長19m、全幅5.3mで、展示の模型は実物の三分の一の大きさ。平行する二つの船胴に渡された板には4人の女性を含めて14人のたくましく日焼けした人形が乗っています。舟の後部に鋭い目を光らせているのがチーフ。いかにPacificoの海と言いながら風にも雨にも出会うことがあったでしょう。板子一枚下は地獄という航海を成し遂げた古代の人たちの勇気と智恵には脱帽せざるを得ません。
      
      ハワイでかならず楽しむのがフラ。日没の頃から始まるこの踊りは多くの場合、南の島からここハワイに長い航海の末たどり着いたお話しから始まって火の神ペレへの賛美に終わります。太平洋の真ん中に位置する島々では新しいものを得るにも、火山の噴火から逃げるにも航海こそが生きる道だったのでしょう。
      ヒトはほぼ140万年前頃に生まれ故郷のアフリカからユーラシア大陸に広がって行ったとされています。ホクレア号を見ているとヒトと材とが一体になって作り上げた生活、エンジンが出来る前のエンジニアリング?の素晴らしさに思いがいたるのです。

    1件のコメント »
    1. 齋藤様
       ブログを読んでいて、ほぼ50年まえに読んだ「コンチキ号漂流記」を思い出しました。科学的に実証するためとは言いながら、なんと勇気があり冒険心に富んだ人だろうかと感心したと同時に、波まかせに星がいっぱいの夜空を見上げているロマンチックさにも心打たれました。
       今度、科博に行きましたら、もう一度「ホクレア号」を良く見てきます。
                      新田義雄

      コメント by 新田義雄 — 2010年3月1日 @ 18:36

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